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来目皇子遺跡

厩戸皇子(聖徳太子)の時代の遺跡としては、九州にあるのは来目皇子の遺跡が唯一であろう。
西暦602年に厩戸皇子の弟である来目皇子が、新羅征伐のための二万五千の軍団を率いて志摩町野北港まで西下してきた。
しかし来目皇子がこの地で発病し亡くなったので、新羅への出兵は中止された。
この歴史をしのんで、志摩町野北にある久米集落の里山に、「来目皇子遺跡」が作られていることは、以前から知っていた。
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すこし辺鄙なところなので、のびのびになっていたが、萩野忠行著「来目皇子」を最近読んでその気になり、やっと今日でかけてみた。
事前調査で、前原市在住の友人にきいたが知らなかったし、現地の畑で作業中の婦人にきいてもわからなかった。一般にはあまり知られていない遺跡である。
YahooやGoogleの地図をたよりに、久米バス停をみつけて、そこでたずねてやっと概略の方向がわかり、そこから久米集落の方にはいって、登り口の案内板をみつけた。
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約300m小山を登ると、写真のような大小の石碑と説明板が円墳上の平地に建てられている。
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小さい自然石は高さ90cmで、来目皇子遺跡と刻まれている。昭和34年に西久米氏子により建てられた記念碑である。
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大きな新しい石碑は「今古俯仰之碑」と、玄洋社社長、福岡市長の進藤一馬の文字できざまれており、彼が中心になって昭和59年に建てられたものである。
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説明板には詳しい歴史的経緯が記されているが、これは日本書紀の内容の解説である。考古学的な証拠となる出土品は何も見つかっていないようだ。
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近くに小さな久米神社もあるはずだが、農家の軒先を通っていく路らしく、鳥居や社を発見できなかった。村の鎮守の神と来目皇子の御霊を祭っているという。近くの植安神社は鳥居がすぐ見える場所なので、こちらにはお参りした。
来目皇子の御陵は大阪府羽曳野市にあるそうだ。
わが家から50km位の距離に飛鳥時代に深い縁のある遺跡があるとは、日本も狭いものだ。
背振山の南には、当時軍団に参加していた物部氏の遺構があるらしい。中原町の物部神社や製鉄遺跡に関係する風の神様の綾部八幡などがその名残といわれている。 つぎの機会にでかけてみたい。
最後に久米神社の地図をしめす。来目皇子の遺跡はこの右下の岡の上(赤丸の位置)にある。
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by gfujino1 | 2009-06-18 17:41 | 郷土史
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