朝鮮通信使の交渉に活躍した景轍玄蘇和尚


わが郷土で生まれた景轍玄蘇和尚は、秀吉、家康の時代
に対馬藩の外交僧として、日韓外交に大活躍をした人物で
あるが、のちに活躍するの雨森芳州ほど知られていない。


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玄蘇の生まれは古賀と福間の町境にある
飯盛山城の城主河津家である。
父と兄は宗像氏貞について忠節をつくした
有名な武将である。
兄は宗像氏貞が立花道雪にやぶれて、色姫
を人質に出したとき、
道雪の命令で氏貞に暗殺されている。
その本拠地は福間町の亀山城(現在の
亀山神社)であったといわれる。


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弟の玄蘇は幼くして出家して氏貞の菩提寺である玄海町の上八(こうじょう)村にある承福寺(隆尚庵)で修行をはじめた。さらに京都にでて修行を積みついに博多の聖福寺の住職となる。有名な博多商人の神屋宗湛の妻は玄蘇の妹である。
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その後海外との人脈やすぐれた博識をかわれて対馬藩に抱えられ、当時朝鮮半島との外交の窓口であった対馬藩の外交僧となる。
最初の交渉は秀吉の朝鮮出兵計画を中止させようと、小西行長らと事前工作をするが、うまくいかず苦労する。秀吉の死後、家康の時代となり、
戦後処理の交渉を引き受け、朝鮮通信使の外交を成功させ、家康からは最高位の紫衣を授与された。
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対馬の厳原にある西山寺にその墓がある。
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河津一族の菩提寺は福間の正蓮寺であり、その近くには写真のような子孫の邸宅もある。また家臣の井浦家、深津家の屋敷跡も存在し、歴史散歩コースになっている。
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先日、宗像の上八にある承福寺をひさしぶりに訪ねた。
門前の階段や楼門まわりが綺麗になり、新しい 黒田文書の説明石碑が据え付けられていた。
和尚さんは、鐘崎の魚まつりやさつき海岸の清掃 作業の行事にでかけられて、留守であった。 地元の行事にひっぱりだこで忙しいらしい。
最近出版された「やさしい禅語」の本を買って かえった。
http://www.jyofukuji.com/
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by gfujino1 | 2005-03-03 11:06 | 郷土史
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