安川電機と関連の深い明治専門学校(現在の九州工業大学)の歴史を紹介する。
明治時代の日清・日露の戦争で、九州における近代工業は、石炭・製鉄・化学などの1次産業が主役となって登場した。 夏目漱石の短編小説「野分」では、主人公がつぎのように語っている。「つぎに渡ったのは九州である。九州を中断してその北部から工業を除けば九州は白紙になる。石炭の煙を浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格がない。・・・」 森鴎外が小倉在住中に、「我をして九州の富人たらしめば」の一文を新聞に掲載して、当時の炭鉱経営者の浪費をいましめ、文化的向上に尽くすように警告したことは、よく知られている。 この警告に共感した安川敬一郎は、明治鉱業の経営で得た利益の社会還元を実行して、私立明治専門学校を設立した。(明治43年) (構内にある安川敬一郎の胸像) この設立計画の推進に協力したのは、東大総長や九大総長を歴任した山川健次郎であった。 山川は会津藩士の生き残り組であり、アメリカ留学のあと東大教授や総長を務め、九州に工科大学が設置されるときの総長でもあった。(大山巌の妻となった山川捨松は彼の妹で、津田梅子のアメリカ留学仲間である。津田塾支援や金色夜叉のモデルで有名である。) そのせいか「明専」は全寮制の4年間教育を行い、軍事訓練も盛んで、優秀な人材を送り出している。 (構内にある山川健次郎の胸像) その後は国立大学に移行し、戸畑キャンパスのほかに情報系の飯塚キャンパスも設置されて、九州の理系大学教育の一角をになっている。私立時代のよき風習が残っており、同窓会活動など活発である。会津若松の白虎隊記念館には山川健次郎の銅像があり、同窓会が定期的に訪問して、創設推進者の地元と交流を行っている。私の母校九大ではこんな動きはない。 安川在職中から、私は非常勤講師を15年くらい勤め、退職後10年間教授をつとめて、飯塚キャンパスの設立委員の一人として走り回った。75周年記念の募金活動も手伝ったが、今は100周年記念事業の計画がはじまっているそうだ。 (大学の事務棟外観) (かっての本館と同じ雰囲気の西日本工業倶楽部)
by gfujino1
| 2005-06-20 12:24
| 郷土史
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