平野神社と鳥飼神社(平野国臣と中野正剛)

今川には、平野神社と鳥飼神社がある。小学生時代はときどき遊びにでかけた所である。
平野国臣の生誕地が今川で、いまの平野神社になっている。
久しぶりに出かけてみたが、平日で人影はなかった。
有名な桜島山の歌碑があるが、いま桜島も噴煙が濃くなっているらしい。
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道路に近い場所に、遺愛の松があるが、まだ若い松である。
かっては平野邸に大きな松があり、ここが福博電車路にかかったとき、この松だでは国臣の魂が宿る木だから切るべからずということになり、複線の中間に残されていた。
しかし後に鳥飼神社に移されたときいている。
電車もなくなり、道路も拡張されて風景はすっかり変わってしまった。
そんなエピソードを伝えるために、新たな遺愛の松が植えられたのであろう。
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今川で生まれた平野国臣の銅像は西公園にあり、すぐ横の鳥飼神社には荒戸で生まれた中野正剛の銅像がある。
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二人はともに国家のために非業の死をとげた志士である。
以前から銅像の場所が入れ替わっているような気がしていたので、調べてみた。
国臣の銅像は地元の有志により、1915年(大正4年)に西公園に建てられ、大戦末期には資源不足で廃されたあと、
1965年に再建されている。銅像の清作者は地元彫刻家安永良徳で、安川・松本一族の親類であり、修猷館に在学していた。
中野正剛の壮絶な切腹死は大戦末期で、国臣の銅像が廃された頃である。その頃は中野の居は鳥飼神社の横に移していた。
その居住地あとに、正剛会有志により銅像が建てられたのは、国臣像の再建と相前後してである。
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中野正剛先生碑と中野正剛先生像と二つあり、その文字は緒方竹虎の書である。この二人は親交があったのは有名である。二人は中学(修猷館),早稲田、朝日新聞社と行動をともにした。私が付属小学校6年で座った机の上板には、初代に緒方竹虎の名前が墨でかれていた。20代くらいまで名前があったが、私の書くスペースはもう無かった。
またこの頃中野正剛が小学校にきて講演をしたことを覚えている。

(追記)鳥飼神社と九州電力
鳥飼神社の境内に、九州電力の前身の九州電灯鉄道株式会社が寄贈した石碑があります。
石碑には大正2年12月(1913.12、松永翁38歳の時)建立とありますが、 九州電灯鉄道株式会社は松永翁が35歳(1910)の時に設立したようです。
福博電気軌道会社と九州各地のガス会社とが合併して九州電灯鉄道株式会社となりますが、その寄贈理由は九州電力のかたもよくわからないということでした。
鳥飼神社との関係は、柳猛直さんの本によると、次のようなことが書いてあります。
東西線が今川橋までのびたとき、地行の鳥飼神社の前の、道のまん中にあった松の木が邪魔なので切り倒すことになりました。
しかし実はこの松は勤王の志士平野国民の屋敷内にあった松だということで、「勤王の志士の遺愛の松を切り倒してすむと思うか!」という反対の声が高くなったので、とうとう松はそのまま残されて、複線のまん中にしばらくたっていたそうです。
この後、鳥飼神社の敷地も線路にかかったか、または平野国臣の碩碑を鳥飼神社に造ったときかに、九州電灯の石碑も献上されたのだろうと推察されす。
松永翁は九州の電力の鬼といわれた実力者で、戦後の電力業界の再編成の時にも、大きな貢献をされました。
九電OBの古賀さんによると、虹の松原の別荘は今もあり、庭に石碑があり東邦電力寄贈と刻んてあります。
恐らく松永翁の寄贈でしょう。又別荘には翁の『一州』、『耳庵』の揮毫の掛け軸もあるそうです。 この別荘はいま建て替えられて九電の宿泊施設として利用されています。
 
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by gfujino1 | 2015-07-29 11:55 | 郷土史
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