伊都国には、3つの王墓がある。平原王墓、三雲南小路王墓、井原鑓溝王墓である。
王墓とは、墓の埋葬品に鏡、剣、勾玉の3種類がそろっていることを条件としている。 伊都国の代表の平原王墓は平原遺跡公園にあり、昔は木棺が現地にあったが、今は円墳の土盛りがつくられ、その中身は伊都国歴史博物館のなかに常設展示されている。 古墳といわずに王墓というのは、墓の時代が弥生時代(3世紀なかば)だからである。 古墳とは古墳時代(4世紀以降)につくられた前方後円墳と定義されているからだそうだ。 しかし原田大六さんはあえて平原王墓を弥生古墳と命名していたので、公園にはその名前の石碑が建っている。 (これはファナックの稲葉清右衛門社長らが寄贈されたものだが、本人は字が下手なので、神田学長にお願いしたと話されていた。神田学長は化学が専門で、平原の大鏡の成分分析を依頼されたのが縁で、遺跡の歴史研究にはまりこんだそうだ。最初は鏡の破片などには触らせてもらえなかったが、写真撮影して破片の形を切り抜き、ジグソウパズル式に組み合わせに成功し、やっと考古学者の仲間に加えてもらったということだった。) 古墳時代は4世紀からと考えられていたのに、最近は箸墓古墳など3世紀なかばの説もおこり、弥生と古墳時代の区切りが混乱してきた。 また伊都国周辺でも、3世紀末あたりの前方後円墳が存在することが明らかになり、邪馬台国を古墳の国「大和」ととする説は、あまり迫力が無くなってきた。 特に大きな鏡の出土は、古くから圧倒的に西日本に多く、それがしだいに東の大和の方に移動していったことは明らかで、鉄の道具や武器と同じ傾向を示しているいるから、古代の先進国は九州であったことは明白である。
by gfujino1
| 2007-03-17 18:17
| 郷土史
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