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 幻の福岡城天守閣

1587年に秀吉が九州平定をして、送り込んだ大名は中津の黒田、筑前の小早川、肥後の佐々などである。
黒田の領国は豊前6郡16万石で中津に城を築く。
(下の写真は戦後再建された中津城天守閣)
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小早川の領国は筑前一国と筑後・肥前の一部37万石で、一旦立花城に入るがすぐに博多湾岸に名島城を築く。
(下の絵は名島城の平面図)
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佐々の領国は肥後一国54万石で既存の隈本城に入る。しかし肥後一揆がおこりその失政の責任で切腹させられ肥後は二分割されて、加藤が隈本城、小西が宇土城に入る。
1600年関が原の戦で小西は敗死し、加藤が肥後一国の領主となり城の大改修をして、熊本城と名前を変更する。
(下の写真は戦後再建された熊本城天守閣)
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関が原のあと黒田は筑前52万石に移封され一旦名島城に入るが、すぐに福岡城の建築にかかる。
この時代の築城は、山城から平城にかわり、複雑な堀と石垣に守られた天守閣がシンボルとなる形態が主流であった。
熊本城だけは西南戦争のときまで存続していた天守閣が確認されているが、中津城、福岡城の天守閣の存在は最近まで不明確のままであった。
しかし加藤清正が熊本城を改築していたとき、黒田如水が見学にきたという記録があり、福岡城にも熊本城と同等の天守閣を計画したと考えられる。
黒田のあとに中津城にはいった細川忠興は、その年の年貢を黒田がもちさったことから不仲になり、中津から小倉に城を移して常に黒田を監視し、築城のデータを徳川に報告した記録がある。そのなかに天守閣が記録されている。これが福岡城の天守閣存在の確証の一つである。
最近そのほかの調査資料からも天守閣の史料がかなり詳細に解かってきたようだ。
中津や熊本の市民が天守閣を再建したのに、福岡市民が戦後いまだに天守閣の再建を考えなかったのは、黒田以前からの博多商人魂のせいであろう。
せめてCG再現図で幻の天守閣の姿を楽しもう。
下の図は福岡城天守閣のCG復元図 (佐藤正彦著 甦れ 幻の福岡城 天守閣より)
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かっては福岡城に天守閣は存在しなかったという説が優勢だったが、現在では一度建設されたあと徳川幕府の嫌疑をおそれて取り壊されたとする説がほぼ確実視されている。
わたしももと福岡市長の桑原さんが博物館長時代に、館の研究者たちの調査結果をまとめて講演されたのを聴いたり、九州産業大学の佐藤教授の著書「甦れ!幻の福岡城天守閣」をよむと、天守閣の存在した確証が沢山発見されているので、天守閣があったと信じるようになった。
上のCG復元図は佐藤先生が調査されたものだが、熊本城におとらぬ立派な天守閣である。。
1619年福島正則が広島城の改築で幕府から嫌疑をかけられ失脚した事件から、各藩で天守閣や御殿をこわしたり縮小した例が沢山おこった。
黒田藩もこの時期に天守閣を取り壊し、当時の大阪城の再建用資材として献上したと推測されている。 豊臣方から徳川方に移った外様大名たちは、生き残りのために大変な犠牲をはらっていたことがわかる。
現在市町村の大合併で、空き家になった建物や議事堂が埃やくもの巣にまみれていることを思うと、中央の権力と地方の知恵のどちらも無くなっているような気がする。
最近「福岡城跡市民の会」が天守閣の再建や歴史・文化のテーマパーク計画をしていることを知ったが、このNPO法人の石井理事長の活躍活躍に期待したい。
http://fukuokajokorokan.npgo.jp/index.html
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その実現方法の一つには大河ドラマがある。
上杉・直江の大河ドラマ「天地人」も、地元の有志やマスコミの運動によって実現したようだ。
これに刺激をうけて、播磨藩の黒田武士顕彰会では、黒田武士を大河ドラマにしたいという動きがあるようだ。
http://www2.117.ne.jp/~ysd/kuroda/
地元筑前でも、秋月黒田藩の「鎧揃え」の行事が盛大に行われたようだが、もっと播磨と筑前が協力して大河ドラマへの行動を起こせば、少しは前進するのだろう。
ただし、大河ドラマになるには武士よりも核となる女性の存在が重要だが、その存在資料がちょっと心配だ。
幕末の野村望東尼のような女傑が戦国時代にもいたらよかったのだが。
by gfujino1 | 2008-03-09 18:01 | 郷土史
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