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九州への原爆は小倉から長崎へ

わが人生で、太平洋戦争中の大きな事件に関わったのは、長崎の原爆であった。
しかしその真実の詳細な内容を当時は知らずに60年を過ぎた最近になって,いろいろの本や多くのネット情報などで詳しい経緯を知ることができるようになった。その幾つかをここにまとめてみる。(情報源は多数なので省略する)

1)広島の次の原爆目標地は小倉市であった。
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広島には原爆を投下するまえに何度も偵察機を飛ばしている。市民が慣れて警戒を忘れる頃に投下したという。
 8月6日の広島原爆投下作戦で観測機B-29「グレート・アーティスト」を操縦したチャールズ・スウィーニー少佐は、テニアン島へ帰還した夜、次の原爆目標は第一目標が福岡県小倉市(現:北九州市)、第二目標が長崎市であること、そしてその指揮をとることを告げられた。

その時の指示では、1機の気象偵察機の飛来後に、3機のB-29で都市上空に侵入するという、広島市への原爆投下の際と同じものであった。
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スウィーニーの搭乗機は通常はグレート・アーティストであったが、この機体には広島原爆投下作戦の際に観測用機材が搭載されていた。これをわざわざ降ろして別の機体に搭載し直すという手間を省くため、ボック大尉の搭乗機と交換する形で、爆弾投下機はボックスカーとなった。

ボックスカーには、スウィーニーをはじめとする乗務員10名の他、レーダーモニター要員のジェイク・ビーザー中尉、原子爆弾を担当するフレデリック・アッシュワース海軍中佐、フィリップ・バーンズ中尉の3名が搭乗した。
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先行していた気象観測機のエノラ・ゲイからは小倉市は朝靄がかかっているがすぐに快晴が期待できる、ラッギン・ドラゴンからは長崎市は朝靄がかかっており曇っているが、雲は10分の2であるとの報告があった。
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硫黄島上空を経て、午前7時45分に屋久島上空の合流地点に達し、計測機のグレート・アーティストとは会合できたが、誤って高度12,000mまで上昇していた写真撮影機のビッグ・スティンクとは会合できなかった。40分間経過後、スウィーニーはやむなく2機編隊で作戦を続行する事にした。
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午前9時40分、大分県姫島方面から小倉市の投下目標上空へ爆撃航程を開始し、9時44分投下目標である小倉陸軍造兵廠上空へ到達。
しかし爆撃手カーミット・ビーハン陸軍大尉が目視による投下目標確認に失敗する。
前日の8日に八幡市を別部隊が空爆していたため、その焼煙が小倉市の上空までたなびき、視界が悪くなっていたからである。八幡地区の工場から「めかくし噴煙」を流したという説もあるが、確証はない。
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その後、別ルートで爆撃航程を少し短縮して進入を繰り返したが再び失敗、再度3度目となる爆撃航程を行うがこれも失敗。この間およそ45分。

2)長崎に原爆投下の目標を変更した。
 この小倉上空での3回もの爆撃航程失敗のため残燃料に余裕がなくなり、その上ボックスカーは燃料系統に異常が発生したので予備燃料に切り替えた。
日本軍は今までB29の1~2機飛来は気象観測と考えて応戦しなかったが、広島原爆のあとはただちに攻撃指令をだすように切り替えていた。
北九州には皿倉山、皇ヶ崎、割子川に10門、若松総牟田、小倉日明にに6門の新形高射砲が設置されており、下関と六連島には口径の大きなものもあった。最大射高は9000m程度で、どうにかB29の高度にとどく程度であった。前日の八幡爆撃のさいは1機を撃墜しており、この日も飛行高度に8発前後がとどいたと報告されている。
         五式戦闘機
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その間に天候が悪化、日本軍高射砲隊からの対空攻撃が激しくなり、また、陸軍芦屋基地から飛行第59戦隊の五式戦闘機、海軍築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機(零戦)10機が緊急発進してきた事も確認された。
         零式艦上戦闘機
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そこで、爆撃目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱した。
 ちょうどこの時間帯、私は九州大学本館2階の講義室で、電磁気理論の講義をうけていた。(3年間の内容を2年間に短縮のため夏休み無しのカリキュラムであった。)
校内放送でB-29が2機小倉方面から福岡上空を通過中ということで空襲警報がでたが、宮崎教授は「日本の高射砲弾がとどかぬ上空をとんでいるのだから、天体の移動と同じだよ」といいながら講義を続けられた。
B29が2機だったのは、1機がはぐれたためだったことを最近初めて知った。また小倉が第一目標だったことは、戦後しばらくして新聞報道された。
 九大工学部本館(当時は黒いコールタールで塗られていた。)
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  長崎天候観測機ラッギン・ドラゴンは「長崎上空好天。しかし徐々に雲量増加しつつあり」と報告していたが、それからかなりの時間が経過しておりその間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠された。
ボックスカーは小倉を離れて約20分後、長崎県上空へ侵入、午前10時50分頃、ボックスカーが長崎上空に接近した際には、高度1800mから2400mの間が、80~90%の積雲で覆われていた。
 補助的にAN/APQ-7“イーグル”レーダーを用い、北西方向から照準点である長崎市街中心部上空へ接近を試みた。
          原爆投下の前
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  スウィーニーは目視爆撃が不可能な場合は太平洋に原爆を投棄せねばならなかったが、兵器担当のアッシュワース海軍中佐が「レーダー爆撃でやるぞ」とスウィーニーに促した。命令違反のレーダー爆撃を行おうとした瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いた。ビーハンは大声で叫んだ。「街が見える!」
3)長崎に原爆投下
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スウィーニーは直ちに自動操縦に切り替えてビーハンに操縦を渡した。工業地帯を臨機目標として、高度9,000mからMk-3核爆弾ファットマンを手動投下した。ファットマンは放物線を描きながら落下、約1分後の午前11時2分、長崎市街中心部から約3kmもそれた別荘のテニスコート上空、高度503mプラスマイナス10mで炸裂した(長崎市松山町171番地)。
これは爆発の効果を最大にするための高度で、VT管によるレーダー設定、タイマー設定、気圧高度計設定の3重計測で達成された。
       原爆投下の後
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 ボックスカーは爆弾を投下後、衝撃波を避けるため北東に向けて155度の旋回と急降下を行った。爆弾投下後から爆発までの間には後方の計測機グレートアーティストから爆発の圧力、気温等を計測する3個のラジオゾンデが落下傘をつけて投下された。これらのラジオゾンデは、原爆の爆発後、長崎市の東側に流れ、正午頃に戸石村(爆心地から11.6km)、田結村(12.5km)、江の浦村(13.3km)に落下した。
私達はこのラジオゾンデをあとで分解調査することになるが、1個だけと思っていたのが3個もあったことは最近初めて知った。
 下の写真は現在気象観測に使われるヘリウムガス気球のゾンデであるが、この時は落下傘をつけて投下された。だから当時は落下傘爆弾とよばれていた。
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 ボックスカーとグレート・アーティストはしばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認し、テニアン基地に攻撃報告を送信した。戦闘機の迎撃も、対空砲火もなかった。
 この頃には写真撮影機のビッグ・スティンクも追いついていて、この時の原爆爆発の様子を撮影し、16mmのカラーフィルムに3分50秒の映像として記録された。この映像には爆発時の火の玉からキノコ雲までがはっきりと写っているという。

4)沖縄経由の帰還
 ボックスカーは長崎市上空を離脱する際には残燃料約1000ℓであり、計算では沖縄の手前120kmから80kmまでしか飛べないと考えられた。スウィーニーはエンジン回転を落とし降下しながら燃料を節約する方法で午後2時に沖縄県の読谷飛行場に緊急着陸した。残燃料は僅か26ℓであったという。
 このことも最近初めて知った。
着陸後、スウィーニーはドーリットル空襲で名を馳せたアメリカ第8航空軍司令官ジミー・ドーリットル陸軍中将と会談した。燃料補給と整備が終了したボックスカーとグレート・アーティストは午後5時過ぎに離陸、午後11時6分にテニアン島に帰還した。

5)原爆の威力
 原子爆弾の可能性については、当時の理系学生であれば大半のものが知っていた。しかしその実現にはかなりの困難な問題があり、当時では10年先の夢と思われていた。アメリカで予想以上に急ピッチで開発されたので、日本側ではただ新形爆弾と称していた。
 また広島と長崎に投下された原爆は同じものだとと当時は思っていた。しかし広島にはウラン235、長崎にはプルトニウム239の方式で、後者が量産しやすい本命であったらしい。
           広島の原爆
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 当時さる物理専攻の教授は、まだ原爆の可能性は低く、「酸素ガス爆弾」だろうという推論を新聞に発表し、原爆とわかったあと丸坊主頭であらわれた。この程度の知識だったから、ウラン235やプルトニウム239方式についての知識は日本の専門家ににもなかっただろう。
プルトニウム原爆はインプロージョン方式起爆する。 長崎原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当の規模にのぼる。この規模は、広島に投下されたウラン235の原爆「リトルボーイ」(TNT火薬15,000t相当)の1.5倍の威力であった。
            長崎の原爆
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  長崎市は周りが山で囲まれた特徴を持つ地形であったため、熱線や爆風が山によって遮断された結果、広島よりも被害は軽減されたが、周りが平坦な土地であった場合の被害想定は、広島のそれを超えたとも言われている。

もし最初の標的であった小倉に投下されていたならば、小倉市だけでなく隣接する戸畑市、若松市、八幡市、門司市、即ち現在の北九州市一帯と山口県の下関まで被害は広がり、死傷者は広島よりも多くなっていたのではないかと推測されている 。
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長崎原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させた。なお長崎の中心地は爆心地から3kmと離れていること、金比羅山など多くの山による遮蔽があり、遮蔽の利かなかった湾岸地域を除いて被害は軽微であったといわれる。

しかし浦上地区の被爆の惨状は広島市と同じく悲惨な物であった。
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浦上天主堂でミサを行っていた神父・信者は爆発に伴う熱線あるいは崩れてきた瓦礫の下敷きになり全員が即死、長崎医科大学でも大勢の入院・通院患者や職員が犠牲となった。
長崎市内には捕虜を収容する施設もあり、連合軍兵士(主に英軍・蘭軍兵士)の死傷者も大勢出たと云われている。
私の従兄が一人、学友が二人も原爆の犠牲者となった。

6)ラジオゾンデの調査
これからが私たちの出番である。
9日の長崎原爆の翌日に、B29が落とした前述のラジオゾンデ(当時日本では「落下傘爆弾」といっていた。)を憲兵隊が大学に持ち込んできた。
新型爆弾の不発弾らしいということで、その分解調査をすることになり、そのグループに参加した。 持ち込まれたのは1個であったが、前にのべたように落とされたのは3個であった。
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 日本軍は不発弾と勘違いしていたようで、関東軍の幹部はこの不発弾をソ連との和平交渉に使う話をしたという。だがこれは実はラジオゾンデで、随伴機はこのゾンデからの電波で、爆発の温度や圧力を計測して帰ったのである。
当時私はじめてこの中の電気部品で、ビニール電線、積層電池、小型多極管、電解コンデンサーなどをみた。これらの電気部品はすべて石綿で厚くつつまれていて、周囲は直径50cm、長さ1mくらいのジュラルミン製の円筒ケースの中にはいっていた。
      積層電池(150V)
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       小型多極管
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        電解コンデンサー
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当時はまだトランジスターは無い時代だが、日本の電気部品にくらべて、みな小型軽量で高性能の部品ばかりで、教授陣も技術の格差に驚いた。
 敗戦後これらの部品はアメリカ軍のMPが大学にあらわれて、すべてを持ち去った。円筒形のジュラルミンのケースだけは、I教授の部屋で傘立てとして永らく使われていた。

7)戦後のアメリカ:スミソニアン博物館展示騒動
エノラ・ゲイは戦後退役し解体保存されていた。 1990年代半ば、スミソニアン航空宇宙博物館側が原爆被害や歴史的背景も含めてレストア中のエノラ・ゲイの展示を計画した。
この情報が伝わると米退役軍人団体などから抗議の強い圧力がかけられ、その結果、展示は原爆被害や歴史的背景を省くこととなり規模が縮小された。この一連の騒動の責任を取り、館長は辞任したようだ。
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その後スミソニアン航空宇宙博物館の別館となるスティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センター(ワシントン・ダレス国際空港近郊に位置)が完成したことにより現在はその中で公開されているそうだ。
前述したような事態が繰り返されるのを避ける目的で原爆被害や歴史的背景は一切説明されていないために、その展示方法には批判的な意見も存在している。

学友のY君は、当時の小型多極真空管をこっそり保管していたようで、その後アメリカの友人からスミソニアン博物館に売れば大金持ちになれるぞといわれ大喜びしていた。結局現物は彼のいたS大学に保管されているようだ。

8)小倉市の照準点は?
 第一目標だった小倉市の照準点に向かって、目標方向への侵入自体は目視により可能だった事から、後の長崎と比べればかなり好都合な投下条件だったことは明らかだ。
もしも爆撃手が、照準点辺りに適当に見当をつけて投下ボタンを押していたら、小倉が想像を絶する被害を受けたことは確実である。ただ小倉造兵廠内のどの地点が、その「照準点」だったのか現在では確認できていない。一部には風船爆弾の製造工場だったのではという説もある。
その跡地に安川電機小倉工場が建設されているので私にもなじみが深い場所だが、このあたりが目標点だったかもしれない。
 すぐ近くに北九州市の勝山公園や中央図書館があり、この付近も当時は造兵廠本部が建っていた場所である。
いま図書館敷地内には、この経緯を記念する平和希求の碑が建てられており、「長崎の鐘」と同じ鐘が吊るされていて、この碑と鐘の前で毎年8月9日の長崎原爆記念日に、投下時間に合わせて慰霊祭が取り行われている。
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長崎に原爆が投下された日、ソ連軍が満州に侵入し,原爆とソ連侵攻が引き金になり、日本はポツダム宣言を受諾、8月15日に降伏した。
その後復興を急いだ八幡製鉄所の公害に苦しめられた北九州市であったが、いま環境対策技術のモデル都市としてよみがえっているのが、せめてものすくいである。

9)模擬原爆 パンプキン
 日本に対する超高度(約9千メートル)からの原爆投下を成功させるための投下訓練と、爆発後の放射線から逃げるための急旋回(急転、退避)の訓練を目的として、第509混成群団は、1945(昭和20)年7月20日頃から連日のように、東京、富山、長岡(新潟県)、敦賀(福井県)、福島、島田(静岡県)、焼津(静岡県)、浜松(静岡県)、名古屋、春日井(愛知県)、豊田(愛知県)、大垣(岐阜県)、四日市(三重県)、大阪、和歌山、宇部(山口県)、新居浜(愛媛県)などの44目標に模擬原爆49発を投下した。(計18任務、延べ50機)
この結果約400人以上が死亡、約1200人以上が負傷したという。終戦直前の8月14日には性能テストのための投下もおこなっている。
しかもこれが日本で模擬原爆と判明したのは、終戦後46年もたった1991年だった。
模擬原爆は原爆と同じ形状の爆弾で、カボチャの形だったことからパンプキンとよばれていたという。
一般市民は3月から東京をはじめとする大都市の絨毯爆撃、6月からの中小都市の絨毯爆撃に翻弄られて、このような模擬爆弾のことなど知らぬは仏のはかない身であった。
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私は6月17日の福岡空襲、家内は7月2日の下関空襲を体験し、本土がどこまで焼土となるのかを恐れていた。
また本土決戦の最初の地は九州であり、戦車の大部隊の国道行進の姿をみていよいよ最後の決戦が近まったと感じていた。
広島と長崎の原爆被害とソ連の参戦という急展開で、ついに無条件降伏の決定を知ったときは、残念な気持ちよりも、技術力と経済力の格差の大きさにうちのめされ、当然の結末だと思えた。
そして北九州の市民には、長崎市民に対する「申し訳ない」という気持ちがが多分にあって、めくらまし作戦などの関係者は長い間くちを閉ざしていたようだ。
by gfujino1 | 2008-08-14 12:26 | 郷土史
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