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カテゴリ:郷土史( 103 )

平野神社と鳥飼神社(平野国臣と中野正剛)

今川には、平野神社と鳥飼神社がある。小学生時代はときどき遊びにでかけた所である。
平野国臣の生誕地が今川で、いまの平野神社になっている。
久しぶりに出かけてみたが、平日で人影はなかった。
有名な桜島山の歌碑があるが、いま桜島も噴煙が濃くなっているらしい。
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道路に近い場所に、遺愛の松があるが、まだ若い松である。
かっては平野邸に大きな松があり、ここが福博電車路にかかったとき、この松だでは国臣の魂が宿る木だから切るべからずということになり、複線の中間に残されていた。
しかし後に鳥飼神社に移されたときいている。
電車もなくなり、道路も拡張されて風景はすっかり変わってしまった。
そんなエピソードを伝えるために、新たな遺愛の松が植えられたのであろう。
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今川で生まれた平野国臣の銅像は西公園にあり、すぐ横の鳥飼神社には荒戸で生まれた中野正剛の銅像がある。
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二人はともに国家のために非業の死をとげた志士である。
以前から銅像の場所が入れ替わっているような気がしていたので、調べてみた。
国臣の銅像は地元の有志により、1915年(大正4年)に西公園に建てられ、大戦末期には資源不足で廃されたあと、
1965年に再建されている。銅像の清作者は地元彫刻家安永良徳で、安川・松本一族の親類であり、修猷館に在学していた。
中野正剛の壮絶な切腹死は大戦末期で、国臣の銅像が廃された頃である。その頃は中野の居は鳥飼神社の横に移していた。
その居住地あとに、正剛会有志により銅像が建てられたのは、国臣像の再建と相前後してである。
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中野正剛先生碑と中野正剛先生像と二つあり、その文字は緒方竹虎の書である。この二人は親交があったのは有名である。二人は中学(修猷館),早稲田、朝日新聞社と行動をともにした。私が付属小学校6年で座った机の上板には、初代に緒方竹虎の名前が墨でかれていた。20代くらいまで名前があったが、私の書くスペースはもう無かった。
またこの頃中野正剛が小学校にきて講演をしたことを覚えている。

(追記)鳥飼神社と九州電力
鳥飼神社の境内に、九州電力の前身の九州電灯鉄道株式会社が寄贈した石碑があります。
石碑には大正2年12月(1913.12、松永翁38歳の時)建立とありますが、 九州電灯鉄道株式会社は松永翁が35歳(1910)の時に設立したようです。
福博電気軌道会社と九州各地のガス会社とが合併して九州電灯鉄道株式会社となりますが、その寄贈理由は九州電力のかたもよくわからないということでした。
鳥飼神社との関係は、柳猛直さんの本によると、次のようなことが書いてあります。
東西線が今川橋までのびたとき、地行の鳥飼神社の前の、道のまん中にあった松の木が邪魔なので切り倒すことになりました。
しかし実はこの松は勤王の志士平野国民の屋敷内にあった松だということで、「勤王の志士の遺愛の松を切り倒してすむと思うか!」という反対の声が高くなったので、とうとう松はそのまま残されて、複線のまん中にしばらくたっていたそうです。
この後、鳥飼神社の敷地も線路にかかったか、または平野国臣の碩碑を鳥飼神社に造ったときかに、九州電灯の石碑も献上されたのだろうと推察されす。
松永翁は九州の電力の鬼といわれた実力者で、戦後の電力業界の再編成の時にも、大きな貢献をされました。
九電OBの古賀さんによると、虹の松原の別荘は今もあり、庭に石碑があり東邦電力寄贈と刻んてあります。
恐らく松永翁の寄贈でしょう。又別荘には翁の『一州』、『耳庵』の揮毫の掛け軸もあるそうです。 この別荘はいま建て替えられて九電の宿泊施設として利用されています。
 
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by gfujino1 | 2015-07-29 11:55 | 郷土史

ふるさとの拡大

いままで古賀市を中心にしていたが、福岡市に移住したので、ふるさとの範囲が拡大した。
生まれ故郷でもあるので、香椎、名島、箱崎、馬出、千代、西公園、六本松、鳥飼など少年時代に歩きまわった場所をふるさとの範囲に拡大して、書き込みたい。
ほかのブログとの調整を初心にかえって分類し、幼少時の思い出を主体にこのブログにとりあげることにする。
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by gfujino1 | 2013-04-12 13:05 | 郷土史

鹿部・田渕遺跡

永浦古墳と鹿部・田渕遺跡は、古賀市のなかでは大きな歴史的遺産である。
発見された当時はかなりマスコミにも採り上げられたが、最近は忘れられている。
永浦古墳は初期の甲兜が発掘された古墳であり、田渕遺跡は磐井の乱のあとに九州で最初にできた粕屋屯倉の跡だろうと推定された大形建物群のあった場所である。
先日の歴史講座では、一応石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の埋蔵物の総覧紹介があり、いろんな観点から、永浦古墳と田渕遺跡の特徴や発掘当時の資料が紹介された。
そして来年には歴史公園としてこの遺跡の復元が計画されていることが報告された。
写真1は、大形建物群の基礎穴の空中写真、写真2は古代の花鶴川河口と入り江の想像図と永浦古墳の場所、写真3は永浦古墳の甲兜の出土品の状況。
既に新JRししぶ駅には、鹿部山から発掘された経筒などのモニュメントが出来ているらしい。一度でかけてみよう。
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by gfujino1 | 2009-06-30 16:54 | 郷土史

桜井神社

志摩町の来目皇子遺跡を訪ねた足で、すこし東側にある桜井神社にたちよった。2~3kmくらいの距離であろう。
桜井神社の外山宮司の弟さんとは昔からの知り合いで、神社の由来などはよく知っていた。
海岸の桜井二見ヶ浦の景勝は以前に眺めたことがあるが、本殿に参拝したのは今回がはじめてである。
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境内は広く鬱蒼としている。楠木や杉の古木の大きさには圧倒される。
江戸時代に黒田が福岡入りして、福岡の西の守護神として建設した神社で、建物は当時のままであるから、400年の歴史の重みを感じさせる。
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今でも正月には周辺の住民のお参りで結構にぎやからしい。また清掃や備品の整備もじもとの協力で充実しているようだ。
近くに九州大学が移転してきたから、次第に人口も増えて、参拝客でにぎやかになるであろう。
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by gfujino1 | 2009-06-30 12:47 | 郷土史

八幡西区 黒崎周辺の風景

安川電機時代に黒崎には20年以上居住していた。
最近もと職場のOB会が黒崎の料亭で開かれ、その会場の壁には、写真のような江戸時代の黒崎宿古地図が描かれていた。
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遠景に帆柱山、右手に岡田宮があるので、スケッチ点は黒崎城山あたりである。
この原図は有名な奥村玉蘭の筑前名所図会である。
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右の岡田宮は有名であるが、中央の丘に黒田社がえがかれているが、具体的な神社は思いあたらない。
同僚も何処だろうとくびをかしげていた。
左下の浄蓮寺は知っているから、位置関係からは鳴水町から紅梅町の間くらいらしい。しかし現在の地図情報で探しても見当たらない。 春日神社や鳥野神社などの名前はあるが、黒田神社はない。
自宅に帰り、福岡県史を読むと、そのなかに遠賀郡黒崎の黒田宮の記事があり、安政二年に御供米10俵が3割減らされたため、もとに戻すよう陳情したことが記載されている。
たしかに存在していたようだが、明治維新後に取り潰されたのだろうか?
も少し時間をかけて調べてみようと、ネットサーヒィンでしばらく探していたら次のウエブを発見した。
黒崎宿周辺の歴史が詳しく紹介されている。
http://www.geocities.jp/hitosht/06nagasaki1/03kurosaki.html
このホームページによると、春日神社のことを黒田宮ともいうそうだ。黒田長政が入国したので、長政の霊も祀られたようだ。
黒崎祇園の本拠となる神社なので、いろんな名前をもっているようだ。
地形的には浄蓮寺のすぐちかくなのだが、この地図では少し離れた丘の上になっているので、勘違いをしてしまった。地図の書き方が少し誇張されているが、昔は住宅も少なく、丘の上にはっきりと見えていたのであろう。
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by gfujino1 | 2009-06-30 12:03 | 郷土史

村山先生の顕彰碑

米多比出身の村山武先生がなくなられて3年目になる。
先生の顕彰碑ができたことをきいたので、先月でかけてみた。
地元の中学校校長を退職後、古賀町時代の文化協会などの会長などを永年勤められ、生涯教育時代のリーダーとして活躍された。
社会教育功労者として文部大臣表彰をうけられている。
経歴書から推測すると、福岡男子師範在学時代に私はその付属小学校生だったので、ある学期には教生の先生として教えをうけたような気もするが明確な記憶はない。
はっきり記憶しているのは、相の島の歴史見学にご一緒したときで、足場の悪い海岸で少し怪我をされたときのことである。少し出血があったので家内が心配して声をかけたが、戦場での経験からこんなのは怪我ではないと、豪快に笑いとばされた姿は忘れられない。
顕彰碑を建てる習慣は戦前には多かったが、戦後にはすっかり少なくなっている。米多比の人々の地域意識の高さが、この顕彰碑となったのであろう。
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by gfujino1 | 2009-06-26 09:35 | 郷土史

田熊石畑遺跡

去年の秋から今年の春にかけて、いろいろ新聞で報道された宗像市の田熊石畑遺跡。
地元での説明会なども行われたが、都合がわるくて出席できずに、資料蒐集にとどまっていた。
今日現地だけは見ておこうと思い、一人ででかけた。
宗像高校の敷地の西側近くで旧3号線とJRの間にある場所で、周辺はかなり新しい集合住宅ができている。
調査中なので、防護壁の隙間からのぞき見することになることも予想したが、立ち入り禁止の立て札とロープだけで壁などは皆無で、ゆっくりと眺められた。
Jの字形の広い地形で一面に青いビニールシートが敷き詰められている。
調査中の場所でよくみれれる風景である。 古賀の田淵遺跡より面積は広いだろう。
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すでにいくつかのホームページで紹介されているが、弥生時代の墓域から15本の武器型青銅器、古墳時代の掘立柱建物多数が発掘され、いま保存運動が展開されている。
どんな結果になるか楽しみである。
http://munakatakouko.web.fc2.com/tagumaisihataiseki.html
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by gfujino1 | 2009-06-26 09:01 | 郷土史

来目皇子遺跡

厩戸皇子(聖徳太子)の時代の遺跡としては、九州にあるのは来目皇子の遺跡が唯一であろう。
西暦602年に厩戸皇子の弟である来目皇子が、新羅征伐のための二万五千の軍団を率いて志摩町野北港まで西下してきた。
しかし来目皇子がこの地で発病し亡くなったので、新羅への出兵は中止された。
この歴史をしのんで、志摩町野北にある久米集落の里山に、「来目皇子遺跡」が作られていることは、以前から知っていた。
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すこし辺鄙なところなので、のびのびになっていたが、萩野忠行著「来目皇子」を最近読んでその気になり、やっと今日でかけてみた。
事前調査で、前原市在住の友人にきいたが知らなかったし、現地の畑で作業中の婦人にきいてもわからなかった。一般にはあまり知られていない遺跡である。
YahooやGoogleの地図をたよりに、久米バス停をみつけて、そこでたずねてやっと概略の方向がわかり、そこから久米集落の方にはいって、登り口の案内板をみつけた。
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約300m小山を登ると、写真のような大小の石碑と説明板が円墳上の平地に建てられている。
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小さい自然石は高さ90cmで、来目皇子遺跡と刻まれている。昭和34年に西久米氏子により建てられた記念碑である。
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大きな新しい石碑は「今古俯仰之碑」と、玄洋社社長、福岡市長の進藤一馬の文字できざまれており、彼が中心になって昭和59年に建てられたものである。
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説明板には詳しい歴史的経緯が記されているが、これは日本書紀の内容の解説である。考古学的な証拠となる出土品は何も見つかっていないようだ。
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近くに小さな久米神社もあるはずだが、農家の軒先を通っていく路らしく、鳥居や社を発見できなかった。村の鎮守の神と来目皇子の御霊を祭っているという。近くの植安神社は鳥居がすぐ見える場所なので、こちらにはお参りした。
来目皇子の御陵は大阪府羽曳野市にあるそうだ。
わが家から50km位の距離に飛鳥時代に深い縁のある遺跡があるとは、日本も狭いものだ。
背振山の南には、当時軍団に参加していた物部氏の遺構があるらしい。中原町の物部神社や製鉄遺跡に関係する風の神様の綾部八幡などがその名残といわれている。 つぎの機会にでかけてみたい。
最後に久米神社の地図をしめす。来目皇子の遺跡はこの右下の岡の上(赤丸の位置)にある。
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by gfujino1 | 2009-06-18 17:41 | 郷土史

水郷都市「博多」 周囲の川と堀

古代は「那の津」の名前からはじまり、中世からは博多の名前で栄えた都市。
飛鳥よりも古い歴史をもち、たびたび戦火には見舞われたが、飛鳥のように荒廃してしまったことは一度もない長寿の都市でもある。
近年の福岡市の地下鉄工事にともなって、多くの発掘調査が行われ、古代の砂浜の地層や、中世の元寇防塁や博多商人の貿易遺品などが大量に発掘された。
「博多を掘る」という資料は200巻になり、積み上げると2mに達するそうだ。まさに汗牛充棟である。
そのリーダー格の九州大佐伯教授がまとめられた調査地図がつぎの図である。
(以下の地図はクリックすると拡大される。)
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中世からの博多の地域は那珂川と石堂川(比恵川)の間の地帯がそのメインであり、この地図の赤い部分が最近20年間に発掘調査の行われた場所である。
同時に昔の砂地層も計測され、点線のような瓢箪形の等高線の地形が明らかになってきた。
これは平安、鎌倉時代の地形であり、南端部には戦国時代の房州堀の跡も描かれている。
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鎌倉時代の推定地形と現在の海岸線を重ねて示した図がこの図である。
13世紀の頃の博多はこの図のように瓢箪形の二つの島にわかれており、北側が息の浜(沖の浜)とよばれ、南側が博多浜とよばれている。息をオキと呼んでいるが壱岐にも通じるようだ。
息の浜はもとの奈良屋小あたりで、神屋宗湛の屋敷などがあった。大友宗麟の時代には近くにキリシタンのため教会が建てられた場所でもある。
さらに遡れば平清盛の時代に湊として整備された場所である。
バテレンの文書によると、ベニスのように豊かで、綺麗な都市であったと書かれているそうだ。
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上の地図はその後の15世紀頃の地図で川添昭二(著者代表)「福岡県の歴史」光文館1990 に掲載のものである。
貝原益軒の「筑前国続風土記(1709)」によると、かって博多は箱崎と陸続きであったものを、立花城を拠点にして博多を支配していた大友氏は、家臣臼杵鎮続安房守に命じて、それまで博多南部を流れていた三笠川(比恵川)をつけかえて、まっすぐ海にむけて人工の川(石堂川)をとおし、南側の川の跡を防御のための堀(房州堀)として設けたと記載されている。 安房の名前をとり房州堀と名づけたのだろうか?
洪水対策でもあったようで、万行寺や櫛田神社の西側の入り江地帯(合流点)はすり鉢の底のような沼地だったようだ。今のキャナルシティや下照姫神社付近に鉢底川の名前が残っている。
地下鉄工事のさいにも、幅6mをこえる東西方向の堀が発見され、大友時代の博多が東西の川と南の堀に囲まれた要塞都市であったことが明確になった。
堺とならぶ代表的な自治都市で、大博通あたりの中央道路は瓦敷きの舗装道路がはしっていた。 堺の町の環濠は秀吉により埋められたが、博多の堀は明治初期まで残っていた。
秀吉は1586年に九州統一をし、博多の復興町割りを行った。石田三成と景轍玄蘇の案をもとに博多10町四方の焼け跡の整地と復興を黒田管兵衛が実行した。その頃の地図を今年「はかた部ランド協議会」で作成したのが次の図である。
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中央部には博多大水道が整備され、南の水路は房州堀と宗也堀と太屋堀の3つの堀名にわけられている。元比恵川もあり、町名と神社・寺院、商人や豪商の屋敷が詳しく記載されている。
南部の堀は1880年の福博詳見全図にも記載されているが、最近の詳しい復元図が次の図である。九州大の木島先生達により調査されたもので、黒田時代に大幅な修復工事がされたことが明確になったようだ。
http://www.chiikishi.jp/hp/tayori/tayori87.html
南部の房州堀の区画の大半は、初期の博多駅建設に利用され、勿論現在はすべて暗渠になり、見ることは出来ない。
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房州堀の水の流れは、もとの地形を考えると、比恵川から那珂川へながれているはずであるが、古老の話では東西に流れていたという伝承がある。
これを裏づけるのが次の古図である。その後の地形の変化で、那珂川と比恵川の中間に小金川と呼ばれる小川ができて、房州堀に流れ込んでいたようだ。その西側部分を鉢底川とよんび、東側部分を緑川とよんだらしい。比恵川には緑橋の名前がのこっている。
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これによく似た三宅所蔵図もあるが、少し流れの位置が東寄りになっている。
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大正末期の旧博多駅周辺の地図では、駅の南側に鉢底川の流れが記載されている。
この川の流れ方向は降水状況や川底の変化で複雑に変化したであろう。
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さらに詳しい昭和13年の地図をつけくわえておく。青色をつけたのが鉢底川である。この頃までは市民に親しまれた川であった。その後上流の工場や住宅開発でかなり汚染され、昭和42年には完全に暗渠化(管渠化)され,今はみれない。
しかも那珂川の川底が高くなったので、ポンプアップして流しているそうだ。
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房州堀の南は郡部で犬飼村である。
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南の郡部から博多への入り口は辻の堂ひとつで、明和(1770)頃は、上が23軒、下が18軒のさびしい所であった。 この付近の辻の堂作出町の風景図が残っている。河や橋があり、明治22年の福岡市制時でも、97戸、502人だったようだ。
作出町はのち出来町となり、現在は承天寺のちかくに出来町公園として地名が残っている。
その後の鉄道開通工事で辻の堂の大部分が博多駅構内となり、承天寺の境内もだいぶ狭くなった。
現在の航空レーザー測量写真によっても、博多の息の浜や博多浜の地帯は、濃い緑色(2~3m高い)部分で浮かび上がっているのが下の写真でわかる。
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博多駅周辺にたびたび水害がおきるのは、昔の地形を思い出させるためであろうか?

参考文献
白水晴雄著「博多湾と福岡の歴史」梓書房2000
 (著者は学生時代のヨット部仲間:九州大名誉教授、地質学)
井上精三著「福岡町名散歩」葦書房1983
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by gfujino1 | 2008-11-16 16:33 | 郷土史

源氏物語千年紀

今年の博多山笠の飾り山には、源氏物語の人形が3箇所にも登場した。

源氏物語に登場する人物で九州までやってきた人物は「玉鬘」ただ一人というのに、千年紀に協賛しての話であろう。 玉鬘は大宰府でうまれたという人までいたが、それはあやまりで、母の夕顔の死後、乳母につれられて筑紫にくだってきたのだ。

千年前には著作権もないし、出版社もないし、日付の入った文書もない。一番古い写本で1258年に写したと記載されているものがあるだけだ。

厳密には源氏物語の存在が記録された別の文書があり、千年前に宮中に流布していたと判断されて、千年紀になったという。

それは紫式部日記「寛弘5年11月1日:敦成親王五十祝」の記事からで、写真の絵巻に描かれた宴会の場面の会話に若紫や源氏の君の話が出てくるから間接的に判断しただけで、直接的な日時の表現は全くないままである。

その会話とは、左衛門の督「あなかしこ。このわたりに、わかむらさきやさぶらふ」と、うかがひたまふ。源氏に似るべき人も見えたまはぬに、・・・というくだりである。
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写真の絵では、一番右の蚊帳のなかの人物で、右の小手をかざしてなにやらものいう風情の男性が藤原公任(カネトウ):左衛門である。


さらに11月1日を古典の日にしようという提案まででているそうだから驚きである。

(以上は源氏物語研究者の九産大:田村隆先生から今日きいた話)
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by gfujino1 | 2008-10-26 10:08 | 郷土史