「ほっ」と。キャンペーン

<   2004年 09月 ( 13 )   > この月の画像一覧

    なつかしい映画ポスター


戦後の名作映画のポスター展が古賀市のサンフレア会場で開かれました。
ローマの休日は、楽しい物語のなかで、世界遺産的ローマの遺跡などを堪能
できました。ローマには2回旅行しましたが、映画やテレビで再三見れるので、
京都なみの親しさを感じますね。九州の歴史とはやはりキリスト教でのむすび
つきですね。最近なくなられた北里先生もヘップバーンのファンだったそうです。


b0017474_1130098.jpg
b0017474_11361375.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-29 11:28 | イベント

小学校の机

豊北町の歴史資料館で、むかしの小学校の机が展示されていた。
むかしの生活用品の展示はよくみかけるが、学校の机の展示は珍しい。
わたしの時代も同じもので、二人掛けで机の上の板をあけると文具や
教科書がいれられた。
わたしの記憶では、この板の裏に先輩の名前が墨で書き込まれていた。
そのトップに中野正剛、緒方竹虎、渡辺OOとかかれていた。
中野正剛は6年生のとき、母校訪問で講演にこられたことを憶えている。
わたしの名前を書く余地はもうなかった。
福岡男子師範付属小学校は戦災で焼けて、その机ももう無い。

b0017474_1126455.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-08 11:25 | 郷土史

土井ヶ浜遺跡


出雲と宗像の中間に豊北町があり、ここの砂丘に土井ヶ浜の遺跡がある。
弥生時代の人骨がたくさん発掘された場所で、人類学ミュージアムができている。
また弥生時代の人家模型もできている。
出雲と宗像の聯合に一役かった人たちであったかもしれない。

b0017474_11104538.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-08 11:09 | 郷土史

出雲と宗像

3月に久しぶりに出雲大社に参拝した。出雲と宗像の関係が深い
ことをきいたからである。
律令時代には、ふたつの郡は神郡として特別のあつかいをうけていた。
どちらも評造(郡司)に三等親以上の親族が複数つくことが特に許されていた。
神話にも、大和朝廷からの使者が出雲に来たとき、郡司が宗像にでかけて
留守であったことが記されている。
その他共通する点が多く、出雲と宗像は強い連合関係にあったようだ。

b0017474_10471931.jpg

b0017474_11452986.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-08 10:45 | 郷土史

小竹の石碑ー3

唐津街道沿いにはもひとつの石碑が小竹にあります。
清水市郎右衛門翁の石碑です。
彼は小竹の農業の新種について研究し、小竹の土壌に適した柑橘類を最初に着目しました。
そして中国よりその苗木を取り寄せて、まず自分の農地でためして、結果がよいことを確認したうえで、青柳、小竹村に奨励しました。
今日の立花蜜柑の最初の基礎をきずいた功績を称える石碑です。
b0017474_21585926.jpg

平成22年道路拡幅工事のさいに、二つの石碑は、一ヶ所にならべられました。
b0017474_93382.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-07 21:57 | 郷土史

小竹の石碑ー2

小竹の唐津街道沿いに清水喜一郎翁の石碑があります。
彼は大正初期に農村経営のありかたを研究するため他国を調査してまわり、一村一家主義をとなえ、農業組合や、農協の前身の組織を提案して、小竹村の農業の安定した繁栄に貢献し、県会議員などもつとめました。
清水市郎右衛門氏の兄で、柑橘栽培のヒントを弟に与えたようです。
この功績に報いるための石碑です。
b0017474_21415243.jpg

現在は兄弟の石碑がならんで建てられています。
[PR]
by gfujino1 | 2004-09-07 21:40 | 郷土史

色姫の墓


b0017474_10272898.jpg
古賀市の史跡のなかでも、一番悲劇的ロマンにあふれているのが、この色姫の墓であろう。
戦国時代に立花城の立花道雪と宗像城の宗像氏貞の間で何度かの争いがおこり、和睦の条件として氏貞は妹の色姫を人質として道雪の側室に送った。
その後再度の争いがおきて色姫は自殺をしてしまう。
今は付き人として来ていた清水家の庭先にその墓が残っている。
清水家には色姫の遺品の衣類なども保存されている。
b0017474_14564016.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-07 21:29 | 郷土史

承福寺(上八)


玄海町に上八という地名があり、コウジョウとよみます。
ここに承福寺があり、代々の宗像氏の菩提寺でした。
写真は現在の承福寺の本堂の外観です。
ここの住職であった玄蘇景轍和尚は、生まれは古賀と福間の境界にある飯盛山城主の河津氏の次男でした。
妹は博多商人の神屋宗湛の嫁になっています。
博多や京都の寺で修行したので、大陸事情に精通していました。
秀吉の時代に李朝との交渉の窓口となっていた対馬藩に招聘され、交渉の任にあたり、和平工作に苦労しました。
江戸時代となって、最初の朝鮮通信使を迎えるための交渉に心血を注ぎ、その成功を見たうえで対馬の地で没しました。

b0017474_17354486.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-06 17:35 | 郷土史

相ノ島


古賀の海岸からみた相ノ島の写真である。
朝鮮通信使は江戸時代に、九州には上陸せず相ノ島に宿泊した。
黒田藩は警備上の理由で相ノ島で接待をした。
しかし周辺の漁民はこのために大変な労役を課せられ、しかも
半島の文化との交流は殆どできなかった。
半島からの漂流物を通じて異文化えの思いを感じたのであろう。

b0017474_16553074.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-06 16:53 | 郷土史

弘法大師の銅像公園

古賀市の筵内には弘法大師のおおきな銅像を中心とした公園がある。
空海は唐から帰国して2年ばかり大宰府の観世音寺に滞在していたので、
古賀地区には有名な空海伝説があり、巡礼して来たことは考えられる。
地本出身の資産家の寄贈により造られた公園である。

b0017474_1636278.jpg

[PR]
by gfujino1 | 2004-09-06 16:34 | 郷土史