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筑紫の大地震

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歴史的には地震の空白地帯と思われていた福岡地方で、三月二十日に大地震がおきた。 
 「日本書紀」に記された「筑紫大地震(六七九年)」は、警固断層による地震で、今の福岡・筑後地方で家屋の倒壊が相次ぎ、幅約六キロ、長さ約十キロの地割れができたことが記録されており、これらが過去最大の地震である。
上の地図の(1)地点の上岩田遺跡の考古学的な遺跡調査でも、この地方で多く地層のずれが発見されている。警固断層と呼ばれる線上に多くの遺跡が分布しているのは、その後地震がなかったからであろう。

その後九州は相次いで大地震の被害に見舞われているが、大半が南九州に集中。北部九州を震源とする大地震は歴史をひもといても数少ない。北部九州でマグニチュード(M)7クラスの地震が発生したのは一七〇〇年にあった壱岐・対馬の地震以来、約三百年ぶりだが福岡ではそれほどではなかった。これ以降も家屋が多数倒壊し「島原大変肥後迷惑」と呼ばれた一七九二年の島原半島の地震があるが、北部九州を震源とする大地震はあまりない。

 各地の気象台が観測を始めた一八九〇年以降、九州地域を震源とし大きな被害を出したM6超の地震は十五件ほど。九州地域最大のM8を観測し、多数の死者が出た一九一一年の喜界島近海地震や、三一年から頻発し、多数の死者を出した日向灘地震など、その大半が南九州で発生している。

 福岡県では一八九八年、福岡市や糸島を襲った地震(M6)で家屋が損壊したが、以後、大きな被害を受けた地震は観測されていない。しだがって今回の福岡の大地震(M7)は、いろんな情報が流されたが、千三百年ぶりの被害といえる。


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朝日新聞によると、この図はその後の余震の震源分布から推定された今回の断層の
図だそうだ。この延長線上に私の生まれた場所がある。建物の被害は僅少ですんだが、
墓碑が倒れた。菩提寺の本堂の瓦も一部ずり落ちた。余震は1週間後もまだ少し続いて
いる。いずれ治まると思うが、次の大地震は、わたしの死後にお願いしたいものである。


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by gfujino1 | 2005-03-21 19:19 | 郷土史

箱崎八幡宮

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まえに桂川町の大分宮を紹介したので、その遷宮先といわれているの箱崎八幡宮を紹介しよう。ハコは韓国の古語で神仏であり、神霊のやどる海岸を意味する。博多もハコガタからハカタになったという。福岡市内にあり元寇の「敵国降伏」で有名なので、ご存知のかたも多いと思う。敵国を降伏させるというのではなく、返り点がないから敵国が降伏してくるという意味と解釈するのが現在の宮司さんである。最近JR箱崎駅の高架工事にともない、発掘調査がされた結果、弥生時代の遺跡とともに中世の唐人や宋人の住居跡が沢山みつかった。貿易で繁栄した場所だったろう。
母方のお寺妙徳寺が近くにあるが、こらも栄西和尚が帰国後最初に建立したものだそうだ。
氏子である私は、子供のころから境内を遊び場所にしていた。家内も同じ箱崎小学校であったから、遊び場所の話題になると話がよくあう。母の実家はさらにお宮に近かったから、大楠木の幹の洞内がかくれんぼの場所だったようだ。
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今回の福岡西沖の大地震は、679年の筑紫地震以来のものであったと思う。新聞によると、
福岡市東区箱崎の筥崎宮で、本殿横に立つ国の重要文化財「石燈籠(とうろう)」が倒壊した。
高さ約三メートルで観応元(一三五〇)年の銘があり、千利休が奉納したと伝えられる。
慶長十四(一六〇九)年に福岡藩主黒田長政が建てた石製約八メートルの「一の鳥居」
(国の重要文化財)も左右の支柱が東側に約五センチずれた。
佐野正靖権祢宜(35)によると「境内と参道を合わせ、灯籠の二十基以上が倒壊した」という。
今までこんなに倒れた話はなかった。今年も放生会の時点で、「一の鳥居」はずれが修復されていたが、「二の鳥居」はまだ修復できていなかった。

 毎年5月には茶の湯を大成した千利休に思いをはせる、裏千家による献茶祭が,筥崎宮で開かれる。今年は裏千家の関係者およそ800人が参加し、本殿で十六代家元の坐忘斎千宗室宗匠(ざぼうさいせんそうしつそうしょう)が濃茶と薄茶をたてて神前に奉納した。
献茶祭は、1587年に九州平定のため博多を訪れた豊臣秀吉が千利休と共に「箱崎松原の大茶会」を開いたことにちなみ、毎年この時期に開かれ、茶の湯の開祖ゆかりの神社に茶を捧げ、参加者は先人の功績をしのんでいる。





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by gfujino1 | 2005-03-21 09:46 | 郷土史

常岡源吉翁の顕彰石碑

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古賀市小竹の公民館前に常岡源吉翁の顕彰石碑がある。明治20年代はじめに糟屋郡青柳村で養蚕業の創業に貢献した人物である。青柳村史や古賀町誌にも記載されている。
石碑の裏面には、「当時栽桑、養蚕の法拙なるを概し、明治21年単身郷里を出て、信州の各地を遍歴し刻苦研鑽、大に得るあり。22年帰来卒各種の範を示し特に信州式蚕座を用い飼育の改良を図る等此業に一新面を開けり。爾来蚕業俄然として各村に普及し、以って今の盛を致せるもの実に翁の啓示に負う所少なしとせず。是より先海外に渡航し、不幸米国に客死せり。嗚呼可惜哉。」と翁の業績を讃えている。米国の市場開拓まで手がけたのであろう。
石碑の書は勲一等侯爵黒田長成とある。黒田藩最後の藩主長愽の子で、慶応3年生まれ、幼名は幸千代、明治7年に長成と名乗り、号は桜谷。
ケンブリッジ大學に留学し、黒田家を継いで侯爵となり、明治25年から昭和14年まで、貴族院議員を務めている。
福岡では修猷館の第3代館長を務めている。名筆家として知られ、県内の著名な石碑にその書がみえるが、小竹にその書の石碑があるのは光栄である。


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by gfujino1 | 2005-03-14 14:30 | 郷土史

王塚装飾古墳


2005年4月に嘉穂郡桂川町の王塚装飾古墳を見学した。地名が桂川町寿命376番地という珍しい名前である。
手前の大分宮(八幡宮)を訪問したついでに少し足をのばした。
八木山バイパスをつかい直行すれば、家から40分でいけるかも知れない。
もっと遠いと思い込んでいたし、それほどの遺跡ではないと思っていたのがまずかった。
色彩画の装飾古墳は九州に多く、近場の竹原古墳、五郎丸古墳などをみていたので、同程度のものと思っていたが、日本で重要文化財に指定されているのは、現在は王塚古墳と奈良の高松塚古墳の二つだけという。
そのうちキトラ古墳なども加わるだろうが、たしかにすばらしい構造と色彩である。
高松塚の繊細な絵画にたいして王塚は古代の原始的絵画であるが、5色の絵の具は九州では最多であり,波頭紋、円形紋、三角紋、馬などの動物、星などの天体などが組み合わされていて、構想が雄大である。
そこで2006年4月に家内をつれて再度見学におとずれた。家内も感激して食い入るように壁画を眺めていた。
詳しいホームページもあるので、ここではその一部の写真を紹介する。
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この古墳に眠っている王は誰であろうか?
いろんな説があるが、有力な説は継体王であろう。磐井の乱で筑紫の君磐井を征伐した継体王である。ただし日本書紀に書かれている大和政権の継体王ではなく、豊の国の倭王の継体王であると考えるのが、九州古代史の会の兼川晋氏グループである。
その論文は読んでいたが、2008年10月兼川氏の講演を直接きくことができた。
        講演する兼川晋氏
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継体王が、「この戦に勝ったら長門から東は朕が治めるが、筑紫から西はおまえが治めよ」と物部荒甲にいったことか日本書紀にある。
長門と筑紫の間に豊の国があり、そこが継体王の国だったから、このような配分案がでたのだという兼川氏の説明は、非常に説得力がある。
武王が筑紫の君・磐井であり、軍君が豊の君・継体であり、ともに南韓の武寧王の一族であった。 軍君が武寧王と親交を深めていき、任那の危機に支援を送ろうとしたのに、磐井が反対したことから磐井の乱が起こったという説明である。
一部には筑紫の君を磐井が殺したから軍君(継体)が磐井を征伐したと言う説もあるが、その後の研究で弱まったようである。
武寧王と筑紫の君と軍君の姻戚関係の詳しい説明は時間の関係で省略されたが、文献的裏付けが明確にあるそうだ。
 
桂川の王塚古墳との関係を質問したら、豊の国の継体王の墓であろうと信じているという答えであった。周辺に日の隈という地名が4ヶ所もあり、御所などのあった場所らしい。政治活動の範囲はさらに南の香春あたりまで広がっていたと推定される。

今年の文芸春秋正月号に「理想の死に方」と題して、著名人58人のエッセイが特集された。
死生観は大体4つに分類される。
1)現世だけで、あの世は無である。
 小説家渡辺淳一は、情死が理想の死に方といい、画家野見山暁治は妻の墓もつくらず、初七日もせず、遺骨は海に散らしたという。
2)わが魂はあの世までも続く。
 個人の死は極楽浄土に至る道だと信じて、その安養浄土を願うのがよい。先に逝った愛する家族との再会がまっていると説く僧侶や医者が何人もいる。
3)知人の愛や子孫へのDNAを通じて、この世に魂を残す。
 急死した友人をわれわれが忘れないないかぎり彼は生きているし、彼のDNAを受け継いだその子孫を通じて、彼の魂は存在していると説く人もいる。
4)本人の事業や仕事の業績をを通じて、この世に魂を残す。
 国のため、部族のために自決した武士、大きな事業や業績を残して社会的に貢献した人物などは、そのシステムを通して魂をこの世に残していると説く人もいる。

装飾古墳に入れられた人物は、4)のクラスの人物であろう。宇宙世界のシステムに通じる太陽や星の図に囲まれ、馬や護衛の文様に守られて安らかに眠っているのであろう。

1)か2)のクラスにすぎない私も、せめてCGで王塚古墳的な装飾古墳図をかいて、枕元におきたいと思いはじめた。
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by gfujino1 | 2005-03-13 15:23 | 郷土史

三郎天神社

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私の家から一番近い神社は三郎天神社である。歩いて5分くらいである。古賀市小竹の古くからの農家がならぶ通りの、一番山手の小高い丘の上に鎮座ましている。周辺は新興住宅地として開発されて、住人は増えたが、この通りの人だけが神社のお世話をされているようである。
春と秋には祭りの旗がかかげられるし、正月元旦には参拝者にお神酒がだされる。たまにお篭りの行事などが隣組の回覧板で案内されるが、新しい住人は殆ど無関心で、ひまな私がでかけても、なかなか溶け込めない雰囲気である。
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石の鳥居もあるし、石の狛犬もあり、石の灯篭もちゃんとそろっている。献上されたのは明治20年代から昭和一桁の間である。小竹が養蚕業などで栄えた時代に献上されたのであろう。しかし神社の由来は誰もご存知ない。祭りの祭主としてこられる五所八幡宮の神主さんも全く手がかりないとおっしゃる。明治時代に書かれた青柳村の村史にも、菅原天神社であるが由緒は不詳と書かれている。古賀市内にはほかにいくつか天神社があり、大宰府天満宮の社領が古賀方面にあったとされているから、そんな縁であろうか。一般的には天神社は雷よけの神様という説もある。
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社のつくりは比較的新しいが、やはり本格的な宮大工の手法で作られている。柱の木組みや彫刻なども標準的な水準の作業が行われている。屋根瓦はきれいで戦後に修理されたのであろう。ちかくに本職の瓦屋さんがおられる。小部落で神社の保守や祭りを維持していくのがだんだん負担になっていくのではなかろうか。
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by gfujino1 | 2005-03-11 22:01 | 郷土史

大分宮(八幡宮)

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JR篠栗線大分(だいぶ)駅の近くに、大分宮がある。平安時代に宇佐八幡宮が京都にも勧請されて、石清水八幡宮が建つと、八幡信仰は新しい勢いで、全国にひろまった。筑前の大宰府の官人も、この流行路線にのり、豊前と大宰府を結ぶ官道の中間地点の嘉穂郡に宇佐八幡の別宮をつくり、大分宮として八幡信仰を広めたらしい。
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しかしこの官道はしだいにさびれてしまったので、唐船の着くにぎやかな博多の近くにうつして、八幡宮の興隆と貿易の利をねらって建てられたのが箱崎八幡宮である。箱崎八幡宮の氏子である私は、いつかこの大分宮を訪ねたいと思っていたが、79歳にしてやっと実現できた。八木山バイパスの高速道路が出来たので、我が家から車で、40分ぐらいでいけたが、はじめての道で、一度通過してしまい、ひきかえした。
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かって栄えた炭鉱地帯はいま静かな住宅地帯となっていて、参道は石畳が敷かれ、拝殿は比較的あたらしく、こじんまりしている。近年再建されたのであろう。境内には馬の石像があり、応神天皇の産湯井戸があり、ここで生まれた伝説があるらしい。箱崎八幡宮は応神天皇のへその緒を埋めた伝説があり、前後関係はつながっている。しかし宇美神社の伝説と重なるのはどう考えたらよいのだろう。箱崎八幡宮社史には宇美神社と同じ時代に箱崎八幡宮が出来た説と、大分宮(穂波宮)から遷宮した説の両方が記載されており、後者のほうが真実性があると書いている。
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歴史が古いだけに、境内の楠木は巨大なもので、天然記念物にしていされている。箱崎八幡宮の楠木も巨大であるが、幹に大きな空洞があり、私の母も子供のころ空洞のなかでかくれんぼをして遊んだとはなしていた。大分宮の空洞はきれいに塞がれていて、寿命を保つように処理されていた。
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by gfujino1 | 2005-03-11 15:58 | 郷土史

清瀧水路(清瀧の仕掛け水)

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清瀧水路とは古賀・清瀧村の水を福間・上西郷村までひくために、江戸時代におこなわれた大工事により出来た水路で、当時は「清瀧の仕掛け水」とよばれていました。上の写真はこの水路の一部です。
明和時代(1770頃)諸国で大干ばつがおきて、百姓一揆や大火災がおこった記録が多く、九州でも秋月藩領で千町歩の被害報告が残っています。この干ばつ対策で、わが郷土でも水路の工事がおこなわれました。

清瀧水路の記録は明和九年(1772)の契約書があり、この頃に完成したと思われます。指導者は冨永甚右衛門という郡奉行で、明和六年(1768)より天明五年(1785)まで17年間、表糟屋、裏糟屋、宗像の三郡の奉行を勤めた人物であります。

{古賀は糟屋郡の北端にあり宗像郡に接していますが、古代の蓆内は宗像郡(当時は郡でなく評と記載)に入っており、戦国時代には宗像と立花の争いの地でもありました。それ故黒田藩は三郡を一人の奉行で統治させたと思われます。}

清瀧水路は糟屋と宗像の境界地域にあり、広域の奉行であったからはじめて大工事が可能になったのでしょう。冨永甚右衛門は就任早々から水不足を解決するために、各地に灌漑用の溜池をつくりはじめました。

莚内には、峠の新堤、天神脇堤を築き、宗像では、下西郷堤、上西郷堤を築き、薦野村の川上から旦の原の通し溝を新しく掘るなどの大工事でした。

水路の全長は2150m(千百八十一間)であり、二つの水路にわけられます。
水路1:清瀧川口より大行事原まで(稲作古溝広げ) 四百十五間; 水路2::薦野抱稲作古溝尻より上西郷村堤頭まで(新溝堀) 七百六十六間

古い溝を広げたり新しい溝を掘って下流に水をひくのですが、一番下流の溜池(上西郷村堤頭)を調べてみると、福間・原町の小高い住宅団地の中にあります。下の写真がその池の風景で、今は百田池という名前がつけられており、生活排水の臭いがけっこう強い池になっています。
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小高い場所に堤頭を作ったのは、ここからさらに広い範囲の田畑に水をひくためでしょう。周囲にははじめの写真のような古い人工溝が何箇所も見られます。
郡奉行の冨永甚右衛門は在任期間中に、この仕掛け水をはじめ、いくつかの功績をあげました。宗像郡では色定法師の「一人一筆一切経」の編纂や保管などに尽力し、文化面でも功績をのこしています。が、反面その貢租の取立ては非常に厳しいものでしたので、郡民の不平不満がつのり、遂に天明五年十一月に隠居を仰せつけられました。
ただし家督は嫡子の冨永軍次郎が相続し、父と同じく三郡の奉行となったそうですから、通常の相続に近いといえましょう。

古賀と福間の助け合い行事は、双方の町史に記載されていますが、住宅団地に囲まれた現在は、住民のかたにもあまり知られていなようです。そこで古賀郷土史研究会のメンバーが、昨年はボランティア案内人として、小学生を2組ほど案内されました。
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by gfujino1 | 2005-03-11 10:50 | 郷土史

朝鮮通信使の交渉に活躍した景轍玄蘇和尚


わが郷土で生まれた景轍玄蘇和尚は、秀吉、家康の時代
に対馬藩の外交僧として、日韓外交に大活躍をした人物で
あるが、のちに活躍するの雨森芳州ほど知られていない。


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玄蘇の生まれは古賀と福間の町境にある
飯盛山城の城主河津家である。
父と兄は宗像氏貞について忠節をつくした
有名な武将である。
兄は宗像氏貞が立花道雪にやぶれて、色姫
を人質に出したとき、
道雪の命令で氏貞に暗殺されている。
その本拠地は福間町の亀山城(現在の
亀山神社)であったといわれる。


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弟の玄蘇は幼くして出家して氏貞の菩提寺である玄海町の上八(こうじょう)村にある承福寺(隆尚庵)で修行をはじめた。さらに京都にでて修行を積みついに博多の聖福寺の住職となる。有名な博多商人の神屋宗湛の妻は玄蘇の妹である。
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その後海外との人脈やすぐれた博識をかわれて対馬藩に抱えられ、当時朝鮮半島との外交の窓口であった対馬藩の外交僧となる。
最初の交渉は秀吉の朝鮮出兵計画を中止させようと、小西行長らと事前工作をするが、うまくいかず苦労する。秀吉の死後、家康の時代となり、
戦後処理の交渉を引き受け、朝鮮通信使の外交を成功させ、家康からは最高位の紫衣を授与された。
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対馬の厳原にある西山寺にその墓がある。
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河津一族の菩提寺は福間の正蓮寺であり、その近くには写真のような子孫の邸宅もある。また家臣の井浦家、深津家の屋敷跡も存在し、歴史散歩コースになっている。
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先日、宗像の上八にある承福寺をひさしぶりに訪ねた。
門前の階段や楼門まわりが綺麗になり、新しい 黒田文書の説明石碑が据え付けられていた。
和尚さんは、鐘崎の魚まつりやさつき海岸の清掃 作業の行事にでかけられて、留守であった。 地元の行事にひっぱりだこで忙しいらしい。
最近出版された「やさしい禅語」の本を買って かえった。
http://www.jyofukuji.com/
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by gfujino1 | 2005-03-03 11:06 | 郷土史