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近代俳人「吉岡禅寺洞」

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福岡市生まれの俳人「吉岡禅寺洞」の句碑が私の菩提寺の境内にある。今まで詳しいことを知らずにいたが、一光寺のある海門戸でうまれた俳人だそうだ。本名は善次郎で、俳号を禅寺洞とした。私が北九州で知っていた横山白虹先生らをそだてた現代俳句の先覚者である。、大正初期に頭角をあらわし、天神で「天の川」の俳句誌出版社をつくり、九州の俳句界のリーダーとなった。九大俳句会を結成して指導してきた。
由来をしると、その俳句まで輝いているように思えるから不思議である。俳句はほんの少しかじった程度であるが、先駆者と将来同じ墓地に眠るかと思えば、今からも少し精進してみたいとも思う。
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句集では、「冬木の 木ずれの音 誰もきいてくれない」であるが、碑文では、「誰れもきていない」とよめる。またの機会に確認しよう。
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「母を葬る」の句は寺の境内にふさわしく、誰でも共感を覚える句である。
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「まっしろき 蝶 ひとついて 「時」をはむ」の句は哲学的であるが、時の記念日の句。
「土古く渡来の鶴を歩かしむ」の句は出水市荒崎(阿久根)鶴の展望所でよんだ句である。
「ここにきて彼岸の入日額にうける」の句は天草郡栖本町湯船原の円性寺に句碑がある。
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by gfujino1 | 2005-06-26 11:13 | 郷土史

荒川文六総長

 九州大学第6代総長荒川文六は、旧福知山藩士荒川省吾の長男としてうまれた。わたしの小学校の友人荒川弘文君の父親であり、専門の電気工学の権威者である。
 昨年文六先生の関係資料が令孫の荒川和生氏より大学資料室に寄贈された。
下の写真のような、礼服姿の写真、恩賜の銀時計、荒川電気工学の著書、勲1等旭日大綬章、卒業証、学位紀、文化功労者顕彰状などである。
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 福岡男子師範付属小学校の生徒のころ、友人の自宅に遊びにいき、温厚そうなお父さまの姿と、珍しい電気器具を見せてもらった記憶はあるが、当時大学の総長という偉い人だとは全く知らなかった。
 私が大学に入学したのは昭和20年4月で、この年の3月に引退されたため、大学で接する機会はなかったが、敗戦後の混乱期のなかでときおり特別室に立ち寄られる姿を拝見した。下の書はわたしが電気工学に進んだことを知られた小学校の恩師が、文六先生からもらわれた揮毫を贈ってくださったものである。
 平坦な道をいくものは走って転ぶが、険しい道をいくものは慎重で躓かないの意である。
 恩師も友人も、もう故人となってしまった。
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by gfujino1 | 2005-06-24 11:55 | 郷土史

明治専門学校(九州工業大学)

安川電機と関連の深い明治専門学校(現在の九州工業大学)の歴史を紹介する。
明治時代の日清・日露の戦争で、九州における近代工業は、石炭・製鉄・化学などの1次産業が主役となって登場した。
夏目漱石の短編小説「野分」では、主人公がつぎのように語っている。「つぎに渡ったのは九州である。九州を中断してその北部から工業を除けば九州は白紙になる。石炭の煙を浴びて、黒い呼吸をせぬ者は人間の資格がない。・・・」
森鴎外が小倉在住中に、「我をして九州の富人たらしめば」の一文を新聞に掲載して、当時の炭鉱経営者の浪費をいましめ、文化的向上に尽くすように警告したことは、よく知られている。
この警告に共感した安川敬一郎は、明治鉱業の経営で得た利益の社会還元を実行して、私立明治専門学校を設立した。(明治43年)
        (構内にある安川敬一郎の胸像)
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この設立計画の推進に協力したのは、東大総長や九大総長を歴任した山川健次郎であった。
山川は会津藩士の生き残り組であり、アメリカ留学のあと東大教授や総長を務め、九州に工科大学が設置されるときの総長でもあった。(大山巌の妻となった山川捨松は彼の妹で、津田梅子のアメリカ留学仲間である。津田塾支援や金色夜叉のモデルで有名である。)
そのせいか「明専」は全寮制の4年間教育を行い、軍事訓練も盛んで、優秀な人材を送り出している。
        (構内にある山川健次郎の胸像)
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その後は国立大学に移行し、戸畑キャンパスのほかに情報系の飯塚キャンパスも設置されて、九州の理系大学教育の一角をになっている。私立時代のよき風習が残っており、同窓会活動など活発である。会津若松の白虎隊記念館には山川健次郎の銅像があり、同窓会が定期的に訪問して、創設推進者の地元と交流を行っている。私の母校九大ではこんな動きはない。
安川在職中から、私は非常勤講師を15年くらい勤め、退職後10年間教授をつとめて、飯塚キャンパスの設立委員の一人として走り回った。75周年記念の募金活動も手伝ったが、今は100周年記念事業の計画がはじまっているそうだ。
        (大学の事務棟外観)
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        (かっての本館と同じ雰囲気の西日本工業倶楽部)
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by gfujino1 | 2005-06-20 12:24 | 郷土史

安川電機の歴史と本社建物の変遷

私が入社した昭和23年当時JR黒崎駅前の本社建物は、まだ木造2階建で、大正4年創業時に造られたままであった。その後昭和27年まで使用され、38年間の寿命であった。
昭和28年にアメリカのレイモンド設計による鉄筋3階建のビルが出来て、当時はちょっと話題になったが、その後の高度成長で周辺に立派な建築物ができて、最近ではみすぼらしく見えるくらいになっていた。
平成17年にJR線路側に高速道路が出来るため、本社ビルの半分以上が取り壊された。今日ひさしぶりに出かけてみたが、一部改造された形は、何か痛ましい気がした。
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実質的な創業者安川第五郎の胸像が、中庭の芝生からその姿を眺めていた。
(社長、会長のほか、日本原子力委員会や東京オリンピック委員会などのリーダーとして活躍)
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玄関側には、左から安川敬一郎、安川清三郎、安川寛の胸像が並び、歴史を感じさせる。
(敬一郎は明治鉱業の創業者で、第五郎の父、明治工業専門学校の創設者でもある。清三郎は敬一郎の弟で、明治鉱業、明治紡績や安川電機の経営者として貢献した。寛は清三郎の子で、戦後安川電機の社長、会長、名誉会長をつとめ、北九州商工会の会長や門司ゴルフ場の理事長も永年つとめた。)
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by gfujino1 | 2005-06-07 17:22 | 郷土史

名島城天守閣跡

秀吉の時代に、嶋津軍が北上し、大分の大友宗麟を攻撃したので、宗麟は秀吉に助けを求めた。秀吉軍の出動に驚き、嶋津軍は撤退し、秀吉は九州平定とともに、筑前の領主に小早川隆景を任命した。九州の守りと毛利の勢力分散をねらう一石二鳥の人事である。
小早川は、今までの大友方の立花城を使用せずに、博多湾に面した名島に城を築いた。水軍を得意とする小早川勢の発想である。
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その名島城は、関が原の戦のあと徳川の天下となり、筑前の領主となった黒田長政により取り壊されてしまった。しかも長政はこの名島の土地を博多商人に売却して、福岡城建設費にあてたため、最近まで私有地になっていた。風光明媚の高台で、富豪の別荘地であったようだ。
ようやく福岡市が買い戻して、現在天守閣跡地の発掘調査を行っている。
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天守閣や周辺の石垣はほとんど福岡城に移されたため、一部の石垣しかのこっていない。
高台からは、はるか北東に立花山が望まれる。現在は千早地区の開発でマンションが手前に沢山たっているが、かって小早川隆景もこの風景をながめたであろう。2年後には展望公園として一般市民に開放されるそうである。
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筑前名所絵図にも名島古城の風景は選ばれていた。
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by gfujino1 | 2005-06-04 21:40 | 郷土史