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日向の飫肥城

九州の小京都とよばれる飫肥城の樹下町にはじめてでかけた。
歴史的には伊東家と島図家の争いの地であり、建築学的には江戸時代の藩主の御殿(屋敷)が現存する希少価値のある場所である。おの御殿は豫章館という武家屋敷として公開されている。動画はこの御殿の縁側から広い庭園と借景をながめた風景である。

中世から伊東家と島津家の覇権争いが繰りかえされたが、秀吉の九州統一以後は伊東家の居城として明治初期まで280年あまり続き、14代にわたり伊東家は五万石の飫肥藩を治めた。 天守閣は残っていないが、藩主の屋敷が残っているのは全国でも希少である。
飫肥杉で有名なところで、屋敷の柱はすべて無節のみごとな杉である。
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屋敷の玄関
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屋敷の床の間
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屋敷の庭側の縁
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庭の風景
本来は城内の天守閣跡のちかくに松尾の丸という御殿があり、藩主はこちらに住んでいたが、
地震などの災害で住めなくなり、大手門の外にあった家老の屋敷を住居としたらしい。江戸後期の飫肥藩は財政事情が苦しかったようだ。
松尾の丸御殿は昭和54年に再建されているが、こちらは節の多い柱ばかりで形ばかりの安普請である。 城主の関連資料がここと資料館に多数展示されている。
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豫章館の北側に城の大手門があり、壮大な門構えである。
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大手門前からながめた武家屋敷の町並みは整然としている。
飫肥藩士は明治維新後の西南戦争では西郷軍を支援して、数百名の犠牲者をだしている。
その後日露戦争の講和条約で活躍した小村寿太郎の生家や記念館が武家屋敷跡のなかにある。
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# by gfujino1 | 2008-05-22 11:57 | 郷土史

人丸神社


新宮町の桜の名所人丸神社の境内は、花吹雪が舞い降りて一面に花びらの絨毯が敷かれていた。

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人丸の由来が旭姫の旭の文字を、日と丸に分け、日を人にしたことから出来たことを
はじめて知った。
鎌倉幕府にわからぬような名前にしたのだろう。
平家の敗戦悲話の一つで、箱崎の米一丸と同じような話である。
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# by gfujino1 | 2008-04-17 15:01 | 郷土史

日吉神社


昨日は鹿部公園にでかけたが、3月一杯は工事中で閉鎖されていた。
そこで行き先を変更して、日吉神社にいくことにした。
地図をたよりにちかくまで車でいったが、標識や鳥居などが見当たらない。ちかくの駐車場に車をとめて、あとは勘で周辺をまわった。
日吉公園からいけるかと思ったがフェンスで塞がれている。公民館への階段をのぼってその先
にやっと鳥居をみつけた。
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昔は岡の上にできた神社だったのだろうが、南側にJRの線路がとおり、東、北、西の周辺が住宅に囲まれてしまい、遠方からわ全く望めない地形になってしまっている。
登ってしまうと大きな木に囲まれた神社で、南側には鹿部山や建設中の美明団地や立花山が一望できる。

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JR線路沿いに車でのぼれる道路が一本あるが、道路標識や祭神・由来の説明板など全くないので、お参りするひとも少ないだろう。周辺のあとから出来た日吉団地の住人とはあまり縁がないのであろう。

丁度JRの電車が神社の真下を勢いよく通過していった。昔と現代が密着しすぎる環境である。
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# by gfujino1 | 2008-03-21 20:10 | 郷土史

馬渡・束ヶ浦遺跡の文化財

新聞によると古賀市の馬渡・束ヶ浦遺跡の出土品が今年度、県の有形文化財に指定されたそうだ。
銅剣、銅矛、まが玉、管玉などの出土品を一括して指定されたのは、弥生時代前期から中期の有力者の拠点あったことがうかがわられるし、クニの成立過程や埋葬状況を知る上で貴重な資料と評価されたからだ。
グリーンパークのなかにある遺跡が、あらためて脚光をあびることになる。
http://www.lib-citykoga.org/museum/muse_hakutu.html#b
上記の市のホームページにも、現場の掲示板にも、まだ文化財指定のことは記載されていない。
お役所仕事だから、4月すぎて夏ごろになるのだろう。
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# by gfujino1 | 2008-03-11 17:09 | 郷土史

 幻の福岡城天守閣

1587年に秀吉が九州平定をして、送り込んだ大名は中津の黒田、筑前の小早川、肥後の佐々などである。
黒田の領国は豊前6郡16万石で中津に城を築く。
(下の写真は戦後再建された中津城天守閣)
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小早川の領国は筑前一国と筑後・肥前の一部37万石で、一旦立花城に入るがすぐに博多湾岸に名島城を築く。
(下の絵は名島城の平面図)
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佐々の領国は肥後一国54万石で既存の隈本城に入る。しかし肥後一揆がおこりその失政の責任で切腹させられ肥後は二分割されて、加藤が隈本城、小西が宇土城に入る。
1600年関が原の戦で小西は敗死し、加藤が肥後一国の領主となり城の大改修をして、熊本城と名前を変更する。
(下の写真は戦後再建された熊本城天守閣)
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関が原のあと黒田は筑前52万石に移封され一旦名島城に入るが、すぐに福岡城の建築にかかる。
この時代の築城は、山城から平城にかわり、複雑な堀と石垣に守られた天守閣がシンボルとなる形態が主流であった。
熊本城だけは西南戦争のときまで存続していた天守閣が確認されているが、中津城、福岡城の天守閣の存在は最近まで不明確のままであった。
しかし加藤清正が熊本城を改築していたとき、黒田如水が見学にきたという記録があり、福岡城にも熊本城と同等の天守閣を計画したと考えられる。
黒田のあとに中津城にはいった細川忠興は、その年の年貢を黒田がもちさったことから不仲になり、中津から小倉に城を移して常に黒田を監視し、築城のデータを徳川に報告した記録がある。そのなかに天守閣が記録されている。これが福岡城の天守閣存在の確証の一つである。
最近そのほかの調査資料からも天守閣の史料がかなり詳細に解かってきたようだ。
中津や熊本の市民が天守閣を再建したのに、福岡市民が戦後いまだに天守閣の再建を考えなかったのは、黒田以前からの博多商人魂のせいであろう。
せめてCG再現図で幻の天守閣の姿を楽しもう。
下の図は福岡城天守閣のCG復元図 (佐藤正彦著 甦れ 幻の福岡城 天守閣より)
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かっては福岡城に天守閣は存在しなかったという説が優勢だったが、現在では一度建設されたあと徳川幕府の嫌疑をおそれて取り壊されたとする説がほぼ確実視されている。
わたしももと福岡市長の桑原さんが博物館長時代に、館の研究者たちの調査結果をまとめて講演されたのを聴いたり、九州産業大学の佐藤教授の著書「甦れ!幻の福岡城天守閣」をよむと、天守閣の存在した確証が沢山発見されているので、天守閣があったと信じるようになった。
上のCG復元図は佐藤先生が調査されたものだが、熊本城におとらぬ立派な天守閣である。。
1619年福島正則が広島城の改築で幕府から嫌疑をかけられ失脚した事件から、各藩で天守閣や御殿をこわしたり縮小した例が沢山おこった。
黒田藩もこの時期に天守閣を取り壊し、当時の大阪城の再建用資材として献上したと推測されている。 豊臣方から徳川方に移った外様大名たちは、生き残りのために大変な犠牲をはらっていたことがわかる。
現在市町村の大合併で、空き家になった建物や議事堂が埃やくもの巣にまみれていることを思うと、中央の権力と地方の知恵のどちらも無くなっているような気がする。
最近「福岡城跡市民の会」が天守閣の再建や歴史・文化のテーマパーク計画をしていることを知ったが、このNPO法人の石井理事長の活躍活躍に期待したい。
http://fukuokajokorokan.npgo.jp/index.html
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その実現方法の一つには大河ドラマがある。
上杉・直江の大河ドラマ「天地人」も、地元の有志やマスコミの運動によって実現したようだ。
これに刺激をうけて、播磨藩の黒田武士顕彰会では、黒田武士を大河ドラマにしたいという動きがあるようだ。
http://www2.117.ne.jp/~ysd/kuroda/
地元筑前でも、秋月黒田藩の「鎧揃え」の行事が盛大に行われたようだが、もっと播磨と筑前が協力して大河ドラマへの行動を起こせば、少しは前進するのだろう。
ただし、大河ドラマになるには武士よりも核となる女性の存在が重要だが、その存在資料がちょっと心配だ。
幕末の野村望東尼のような女傑が戦国時代にもいたらよかったのだが。
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# by gfujino1 | 2008-03-09 18:01 | 郷土史

多々良川河口の風景(船入り場と九大ヨット艇庫)

「故郷名島の歴史」の本がでて、3年目である。
発刊の発起人代表真田さんが、遠縁にあたることを最近知って、くわしく読み直してみた。真田姓は古くから小早川の家臣だったこともわかった。知人やmixi仲間からもいくつかコメントをもらったり、別の埋め立てに関する本を見つけて調べなおしたことをここにまとめる。
1)古代の名島の地形
古代の名島は博多湾に突き出た岬の先端部にあった。
その付近で発見された名島古墳は古墳時代初期の古墳で、この地方でも古い遺跡である。古代からこの地区には海洋民族が住み着いていた証である。
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2)多々良川と名島城
中世には多々良川周辺は堆積土で周辺の土地がひろがり、人家や田畑がひろがった。
また先端の丘に名島神社、弁財天、神宮寺、宗栄寺などがあり、その下の黒崎海岸には神功皇后ゆかりの帆柱石がある。
中世になって立花城の出城が名島にきずかれ、南北朝時代に足利尊氏が九州までのがれてきて、菊池勢との多々良川決戦で勝利をおさめた場所でも有名である。その後も毛利・大友の対決の戦場ともなった。
その後豊臣秀吉の九州平定で、筑前が小早川隆景の領地となり、その本城が海に面した名島城として築かれた。
小早川は水軍を得意とする武将で、城は次の図のように海続きの掘割で囲まれている。
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残念ながらこの時代の武家屋敷の地図は簡単まものしか残っていないようで、この堀の側には宗栄寺が存在していた。屋敷図にある浦一族は立花城の城代家老であった。
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(周辺は風向明媚で、妙見島は秀吉・淀君の茶会が催された場所でもあった。またわが家の菩提寺もこの地にあったが城下町建築のため、この時期に箱崎に移転させられたという。)
今回はこの名島城の掘割の場所の、その後の変化を調べるのがメインテーマである。
3)黒田長政時代の名島城と武家屋敷
隆景は10年くらいで備前三島に隠居し、養子の秀秋があとを継いだが、有名な関が原の戦いのあと、黒田長政が筑前の領主に代わった。
長政が名島城にはいった頃の城下屋敷の図が残っている。次の武家屋敷の図によれば、掘割の横に、のちに黒田騒動で有名になる五千石の栗田大膳の屋敷があったことがわかる。
その他の有名な黒田武士の名前が多くみえる。
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4)幕末・明治の名島城屋敷跡の見取り図
しかし長政は平和な江戸時代には名島城は土地が狭いとして、広大な面積のある福岡城の建設をはじめ、名島や立花の城の石材をすべて福岡城に運んでしまう。
したがって名島城とその屋敷跡は廃墟となったまま明治を迎える。
次の明治時代の村長真田広が作らせた名島城屋敷跡の見取り図をみると、濠にはいくつか通路がもうけられて、上、中、下の濠に分断されている。そして船入り場の形は明確ではない。
七兵衛屋敷跡の名があるが、これは黒田藩の御用商人として財を成したもので、栗田大膳の屋敷跡あたりを買い取り、使用してしたものらしい。
山頂の天守閣跡も最近福岡市が展望公園として整備するまでは、私有地となっていた。
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5)河口の船入り場と九大ヨット艇庫
多々良川河口の黒崎という字名の入り江は、昔から繋船、荷揚、船修理などに適した場所で、名島城の掘割にもなったが、その後は名島村の船入り場として利用されていた。
大正・昭和初期時代に東邦電力の発電所が建設されることになり、黒田の御用商人だった七兵衛屋敷跡も候補地の一部となり、さらに河口域が約六千坪埋め立てられた。
この時多々良村の要請で、約八百坪の船入り場と四十坪の荷揚げ場が必要とする要望書が昭和5年に出された記録がある。そのときの船入場の計画図面が次の図面である。
また同時この一角に九州大学のヨットの艇庫と発電所に通じる冷却水の水路がもうけられたと思う。
ヨット部は昭和2年に結成され、3年に水面利用許可がでて、艇庫は6年に完成したが、台風で倒壊したあとまた再建された記録がある。
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昭和初期の地図(名島大橋の工事計画中のころ)には、この船入り場が少し拡張された形で明確に記載されている。また航空写真にもその一角がよく写っている。
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mixiのヨット部仲間のタッチャンや季咸◆kikan。さんが青春時代に通った思い出の場所であり、わたしも昭和18、19年頃、また家内も昭和27,28年頃通った場所である。
西鉄名島駅から艇庫に近づくと、発電所のコークスや石炭ガラの匂いが漂う場所をとおり、小川をすぎた頃から磯の香りが漂ってきたことを思い出す。日発時代の発電所では1月間ほど実習した経験もある。
当時は水面貯木場としても利用されたが、現在はさらに沖の埋め立て地の、かもめ大橋の西岸に専用の貯木場が新設されている。
(小学生の頃の遠足や磯遊び、貝堀りやのり採りなどの思い出多き場所で、学友のH,F君などの家もあった。)
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6)最近の地形
その後の開発・埋め立てがすすみ、艇庫は昭和45年に西戸崎の大岳に移設され、名島の船入り場はなくなった。
現在の地図と名島城跡を重ねあわせたものが次の地図である。
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また次の昭和58年の航空写真もカラー化しているが、昔の船入り場あたりは高速道路の通過点の下となり、埋もれてしまっている。
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隠居後にこの場所の近くで(千早の九大仏青会館)福岡シニアネットのみなさんの東サロンに参加できて、そのおかげで名島の歴史研究会の中間報告会や現地案内などの会に参加できたのも、大変幸いであった。
以前このBLOGで作成した下記のページと一部重複するが、そのアドレスを記載しておく。
http://gfujino1.exblog.jp/3420569/
 多々良河口の風景  2005.9月
http://gfujino1.exblog.jp/3272870/
 名島城と妙見島  2005.8月
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# by gfujino1 | 2008-02-12 15:25 | 郷土史

箱崎八幡宮の放生会

昨年9月14日小雨の中で参拝しました。結構人出がありました。
出店は色とりどりで賑やかでした。
一の鳥居の修復は完了していましたが、二の鳥居はまだでした。
そのときの写真を掲載します。
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# by gfujino1 | 2007-11-17 12:13 | 郷土史

白鷺が舞い降りる


お隣の番犬が大きな声で吠え続けるので、そっと外にでてみた。
すると駐車場の前に大きな鳥がのそのそと歩いているではないか。
あわててカメラをとりにもどったが、こんどは少し林の道のほうに移動していた。
近くの田圃では今頃ときおり見かけることのある白鷺であるが、近くでみるせいか一番おおきく感じた。
飛び立つときの羽の幅は2m以上あったように思えたが、残念ながらその瞬間の撮影に失敗した。

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# by gfujino1 | 2007-11-13 20:48 | 日常生活

センナの花


近くの花屋さんでは、最初は「千の小花」という名前を教えられた。わが家の玄関わきに植えたら結構おおきくそだって、黄色の花を毎年秋にみることができる。
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しかし家でしらべてみたら、そんな名前がみあたらない。
ネットで調べると南米原産の「カッシア」という花らしい。
別名アンデスの少女ともいうとかいてある。
ヨーロッパで「センナ」というらしいから、千の小花になったのかもしれない。
昨日のテレビではモクセンナと紹介されていた。結構背の高い木に育っていた。
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# by gfujino1 | 2007-10-22 20:57 | 日常生活

小山田斎宮

古賀市の小山田斎宮については、このブログの05年4月に私の調べた内容を記載しているが、最近河村哲夫氏の西日本古代紀行を読んで、私と同じ考えであることを知った。
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日本書記に仲哀天皇が亡くなったので、神功皇后が仮葬の場所を小山田斎宮にしたことが記載されている。
江戸時代に貝原益見がこれを久山町の山田斎宮と推定したために、地元の学者(長先生たち)もこれを信じておられるかたが多い。
古賀市の小山田斎宮は辺鄙な場所のため、また市の広報が不十分のため存在をあまり知られていない。
しかし、河村哲夫氏の本では、「遠賀川河口から筑紫平野に上陸した一行が香椎までたどった経路」が地図のようなルートだったと推定し、久山まわりで香椎にいくのは不自然であり、古賀の小山田経由のほうが自然である。
仲哀天皇の遺体をこの経路にそって送り返し、香椎、小山田、穴門の順に移動させ、穴門の豊浦宮が忌宮神社と呼ばれるになったと想定している。
地元郷土研究者として大いに意を強くした次第である。
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# by gfujino1 | 2007-10-08 18:10 | 郷土史

不弥国王の古墳

先日は宇美町の光正寺古墳と、志免町の七夕池古墳を見学した。といっても二つの直線距離は1Km以内で大変近いが、町の境界線でわかれている。
宇美町は平成になり発掘調査されて、きれいな公園として整備されていて、駐車場もある。
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志免町のほうは、昭和時代の発掘調査で、時間がかかっているせいか、草がはえて荒れ果てた感じで、標識も貧疎で駐車場もない。
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どちらも不弥国王の関連と推定されているが、管理自治体の差で、古墳の扱い方の格差も大きい。
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# by gfujino1 | 2007-10-03 15:28 | 郷土史

蜘蛛の巣

明日から10月というのに、今年はまだ蜘蛛の巣が庭のあちこちにかかっている。
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その一つでは、巣にかかった昆虫に、蜘蛛の親子がかけよっていた。動画にとったが焦点が後ピンになってしまった。

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# by gfujino1 | 2007-09-30 19:06 | 日常生活

雨にもまけず

年とると、雨風によわくなる。そんな時は宮沢賢治の詩を聞きなおして、元気をもらおうと思う。そんな動画をみつけた。

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# by gfujino1 | 2007-09-30 11:10 | 日常生活

宗勝寺

東区下原5丁目に小早川水軍の将・浦兵部宗勝の名前をつけた寺で、宗勝の墓がある。
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1569年5月、小早川隆景ら毛利勢は大友方が守る立花城を攻め落とし、降伏した大友軍の将兵を丁重に志賀の島の敵陣に送り届けた。
これに対抗して大友宗麟は、毛利家の本国・山口に別働隊を送り込んだ。毛利軍は宗勝以下わずかの兵を残して退却し、味方の撤退を見届けた宗勝は、降伏勧告をうけいれて同年10月に開城した。大友軍は浦たち毛利残留兵を芦屋まで送り、本国に帰還させた。
その後隆景は秀吉につき、秀吉の九州平定後、筑前名島城に入ったとき、宗勝は立花城代(2万8千石)を命じられた(1587)。1592年9月に病没(関ヶ原の8年前)。
真福寺という寺に葬られたが、隆景は寺の名前を宗勝寺と改めさせ、寺領20石を寄進した。本堂左手に樹林の中に宗勝の墓がある。
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当時の本堂は火災にあい、現在のものは200年前に再建されたものである。
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楼門と鐘楼
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宗勝の墓
末裔の浦克已さんから、立花城や名島城の講演をきいたことがあり、寺も国道3号線から見えているので、いつでも行けると思いつつ、やっと今日境内を訪ねた。
本堂は三日月山に面しており、立花山頂はマンションの影になっている。

浦宗勝の菩提寺は広島県竹原市忠海に所在する勝運寺である。
 浦宗勝は、小早川氏の分流、乃美氏の家に誕生したが、父が同じ小早川氏の諸流である浦氏を相続したことにより、浦氏となる。 宗勝は、小早川隆景の指揮下で、小早川水軍の統括責任者で毛利水軍の主力軍の武将として各地に転戦、目覚しい戦果を上げている。
 1555年の厳島合戦前夜には、毛利元就の意向を受けて、来島水軍への応援依頼に出向き、来島氏との交渉を引き受けていたのも、宗勝であった。
 宗勝は、終生小早川隆景の下で、小早川水軍の提督とし活躍し、秀吉による九州征伐に出陣し、立花城代となったあと病死した。
前述のように遺骸は下原の宗勝寺(生前母の菩提寺として建立していた寺)に葬られた。
 その後、小早川隆景が、筑前から三原に隠居したとき、宗勝の一族も殆ど小早川隆景とともに三原に従い、同時に宗勝の遺髪をこの勝運寺に葬ったという。一部の一族が克己さんのように九州に残ったらしい。

小早川隆景の墓も宗像市大穂の宗生寺にある。これは別の頁でふれる。
 
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# by gfujino1 | 2007-09-28 17:20 | 郷土史

宗像市 大島

まずまずの天候の日に、気分転換のため大島温泉に日帰り旅行を決行した。車で渡って、島の一周道路をまわってみた。
大島灯台や風車展望所、砲台跡など、島の北側の風景は期待以上で、東尋坊に近い絶景であった。
大島温泉の近くに安部宗任の墓があり、東北の前九年の役でやぶれて、77歳までこの島で流罪の身の生活をしたことを確認できた。これは以前にMIXIや「よかくさ古賀」の歴史に書き、安部一族の墓が古賀の流れの交差点近くの丘にあることも写真をとってのせている。
この子孫が安倍晋太郎や晋三だという話もでたが、確証はないようだ。
温泉は潮湯であったが、連休のわりにはゆっくりしていた。
たっぷり休養をとって、4時半のフェリーで神湊に帰り着いた。
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# by gfujino1 | 2007-09-25 16:40 | 郷土史

綿津見神社

福岡市東区三苫と新宮町の海岸沿いには海の神様の綿津見神社がいくつかある。
古賀市の方は現在かなり海岸線からはなれているが、かっては入り江だったらしい。
三苫と新宮の綿津見神社の近くの道路はよく通るのだが、入口が解かりにくいので、今まで素通りしていた。
先日は好天にめぐまれ撮影にでかけた。新宮湊の方はひなびた神社であるが、三苫の方は予想以上に広く、また海にちかい。そして海側の景色がすばらしかった。これから時々でかけたい場所で、このあと一度家族をつれてまたでかけた。
日本書記では綿津見神社の底津少童命・中津少童命・表津少童命の三柱は阿雲系 ということで、宗像との関係も深いようです。
あとで詳しい紹介のホームページを見つけた。
http://www.jinja.sakura.ne.jp/higashiku/no45/no45.htm
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さらに新宮湊の磯崎鼻までいくと、岩場の先に相の島がみえ、連絡線がかよっている。
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# by gfujino1 | 2007-09-25 16:07 | 郷土史

宮地嶽神社秋季大祭


本年も秋の稔りに感謝する秋季大祭が9月21日(金)~23日(祝)にかけて斎行されます。
本年の御神幸行列は21日(お下り)と23日(お上り)の2回行われ、21日のお下りには演歌歌手の『石原詢子』さんが祭王として出演されました。
その出発前の写真撮影の場面に出会い、カメラにおさめました。
23日のお上りには韓流の若手俳優『ベック・ジョンミン』ヘグム演奏家『シン・ナルセ』さんが朝鮮通信使姿で出演されました。シン・ナルセさんの待機姿もカメラにおさめました。
また大祭期間中は、宮地浜御旅所や神社境内にてさまざまなイベントが行われました。
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# by gfujino1 | 2007-09-21 14:46 | イベント

中島宏の壷

退官記念にY社から青磁の壷を頂いた。武雄(弓野)の中島宏さんの作品というので、その後嬉野温泉にいった帰りに、中島さんの窯元に立ち寄った。樟の木でつくられた立派な座敷に大きな作品が沢山展示されていた。もう15年以上前のことで、記憶がうすれているが、迫力のある作品だった。
昨日Y社会長の自伝を読んでいたら、中島さんの窯元に行こうと誘われたのは高松宮であったと書いてある。ゴルフや陸上競技で深い交流があったらしい。これ以来会長も青磁にとりつかれたようだ。
我が家の宝にしなければと思い、大事にかざっていた。
今年中島宏さんが人間国宝となられたというニュースがとびこみ、驚くと同時にますます家宝としての価値があがった。
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# by gfujino1 | 2007-09-17 12:55 | 日常生活

九大の山の家

大学2年の孫が真っ黒に日焼けして帰省した。軽井沢でテニス部の合宿があったという。
われわれの夏休みは戦後の混乱期のS22年。
それでも九重山の大学の山の家に、米をかついででかけた。汽車の切符を買うのに苦労したことや、車両が貨物用だったことを覚えている。
家内もS26年に、やはり米をかついでのぼったという。二人ともその後は立ち寄っていないし、二人の話が食い違うので、今回の滞在中に、息子の運転で長者原のホテルから筋湯方向に確認に出かけた。息子も25年ぶりという。
近道が6月の雨で通れないので少し時間がかかったが、奥まった場所にリフォームされた建物を確認した。手前に大きな研修センターが出来て、周辺の景色はすっかり変わっていた。しかし谷あいにある温泉の湯煙は昔のままだった。
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近道が6月の雨で通れないので少し時間がかかったが、奥まった場所にリフォームされた建物を確認した。手前に大きな研修センターが出来て、周辺の景色はすっかり変わっていた。しかし谷あいにある温泉の湯煙は昔のままだった。
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# by gfujino1 | 2007-09-17 12:44 | イベント

奈多海岸のパラグライダー

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久しぶりの青空、風も少しある。 ヨットマンにはよい天気です。
パラグライダーにもよいコンディション。 そこで奈多の海岸に見物にでかけた。
家から車で20分くらい。 ゆっくり旋回する姿はスローライフの リズムにぴったり。自分でもやりたくなった。
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しかしやれない老体なので、グリーンパークに出かけ て噴水の写真をとり、昨日のパラグライダーの写真と重ねると、ますます清涼感が でた。合成写真も結構楽しいものだ。
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# by gfujino1 | 2007-09-17 12:33 | イベント

敬老会の演芸4


最後のしめは原口さんの大正琴の演奏{19の春}その他でした。
みな19の春になった気分でお開きとなりました。
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# by gfujino1 | 2007-09-17 12:17 | イベント

敬老会の演芸3

小学生のかわいいフラダンスがはじめて登場しました。
去年までは中高年のおばさまのフラダンスでした。

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# by gfujino1 | 2007-09-16 16:53 | イベント

敬老会の演芸2


小学生による少林寺拳法の実演です。
最年少には幼稚園生のかわいい坊やもいました。
お父さんがこのグループの先生のようです。

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# by gfujino1 | 2007-09-16 16:48 | イベント

敬老会の演芸1

今日、わが区の公民館で敬老会があり、いろんな演芸が披露されました。
67歳以上が250名ほどいるそうですが、70人くらいが出席していました。
会食のあとに、舞台で地域の人による演芸が行われます。
その一つは、ひょっとこ踊りでした。その他カラオケ、大正箏、合唱、笛などいろいろでした。

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# by gfujino1 | 2007-09-16 16:16 | イベント

立花蜜柑の温室栽培

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立花山周辺は立花蜜柑でゆうめいでしたが、最近は蜜柑畑もへりはじめ、残っているのはハウス栽培の蜜柑が多くなりました。
近くには果樹園もあり、秋の収穫が近い果樹がたくさん見えます。
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# by gfujino1 | 2007-09-14 11:48 | 日常生活

姪の結婚式(2)

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ケーキカットのあとはやや緊張もほぐれたようでした。

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新郎新婦にささげる音楽演奏のカップルも新婚ほやほやだとか。
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# by gfujino1 | 2007-09-13 19:08 | イベント

姪の結婚式(1)

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二人は海外子女だったので、式も教会でした。
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署名はどんな内容かな?



定番のケーキカットも音楽演奏付きでした。
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# by gfujino1 | 2007-09-13 19:08 | イベント

新宮町沖田の地名

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古賀市にも沖田の字名があるが、お隣の新宮町にも沖田の地名があり、最近有名になっている。いまの筑前新宮駅より北側1.4Kmの地点の沖田地区にJRの新しい駅ができる計画があり、ここを中心に大形の開発が進んでいる場所である。
地名から推測すると、海岸に近い場所を開墾して水耕稲作が出来るようにした地帯であろう。
今までは写真のように広い田園地帯であったが、去年あたりから埋め立てがはじまり、新宮町の中心街としての開発が行われ、大形商業施設、公園、住宅などができると同時に、下水処理と公園を一体化した大形広場も出来るらしい。埋め立て用の土砂は古賀の谷山から運ばれている。
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新宮町には西鉄新宮駅があるだけで、JRの駅がない。筑前新宮駅は福岡市の地区にはいる。
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インターチェンジもない細長い地形のため、中核となる繁華街がなかったが、これが完成すれば、役場や西鉄駅も近く、まちの中心街となるだろう。
わが家からも一番近い駅となるが、活用するまで命があるか問題だ。またやがては福岡市に合併されるかもしれない。
JR筑前新宮駅の古い駅舎と新しい駅舎の写真も対象的で大きな変化である。
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新駅の名称は未定であるが、沖田よりも「上府駅」が有力らしい。
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# by gfujino1 | 2007-09-12 22:22 | 日常生活

甕棺族の分布

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弥生時代の初期から中期にかけて、北部九州には死者を大型甕棺にいれて埋葬する風習の民族がいた。福岡市金隈遺跡では367基もの甕棺が展示されており、壮観である。
玄海灘に面した地域では、唐津から古賀までと聞いていた。そして弥生時代後期には、甕棺埋葬の風習はなくなって、卑弥呼の墓のように古墳にかわる。
最近読んだ橋口達也さんの本で、その分布図をみつけたが、古賀は飛び地状態で、多々良川が東側の境界になっている。
嘉穂や武雄には大きな飛び地帯があり、古賀や島原、玉名などは小さな飛び地帯である。
古賀より東北の地帯は古墳時代の埋葬形式だから、弥生時代前期には無人に近い状態だったのだろうか?
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そしてこの甕棺墓のルーツは何処か?と調べていたら、韓半島南域の馬韓時代(2~3世紀)ということが解かった。栄山江流域の石室封土墳に多く残り、百済の支配下になっても、独自の勢力圏をもっていたらしい。
百済の圧力からのがれて日本に渡来してきた部族が筑紫平野に住みついたのであろう。
詳細な紹介文献:http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/kyushu/kamekan.html#2
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# by gfujino1 | 2007-09-10 20:25 | 郷土史

日本号の槍の運命

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 「日本号」と名づけられている名槍は、いま福岡市美術館で常設展示されている。
 豊臣秀吉が武勲をあげた福島正則に恩賞として授けた由緒ある槍で、作者は不明であるが、美術品としての評価が高く、今なら人間国宝クラスの人の作品といわれている。
 そのあと黒田家の家臣母里太衛が大杯の酒をみごと飲み干して、福島から飲みとったとする「黒田節」で有名になった。
 その後の槍の流れを最近読んだ本で詳細に知った。
 明治維新の混乱時期にこの槍が売りに出され、玄洋社の頭山満が買い取った。博多の侠客大野仁平が頭山との争いのあと、肝胆相照らすなかになり、頭山はこの槍を仁平にゆずった。
 仁平の死後、その息子が槍を売りに出し、炭鉱王の安川敬一郎が買い取った。
 子息の一人安川第五郎は子供の頃、欄干に飾られた槍をみて、怖いと思っていたという。
 しかし彼は晩年に槍を私物化するのは良くないと思い、黒田家に献上した。
 黒田家は代償に狩野派の掛け軸を安川家に授けた。
 戦後になり、槍は福岡市美術館に寄贈され、掛け軸は国立美術館に寄贈され、どちらも公共の施設で鑑賞できるようになった。
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# by gfujino1 | 2007-07-14 16:32 | 郷土史