3世紀の鏡

昨日は3世紀の鏡からみた邪馬台国の話をきいた。
現在5300枚も出土している鏡を種類、時代、地域ごとに調査して、卑弥呼が魏からもらった100枚の鏡をしぼりだそうという話である。
時代的には三角縁神獣鏡が候補となり、専門的な名前や表現が多く、素人には理解しにくい点も多い話であったが、一つの可能性は、兵庫県の播磨から大阪あたりが邪馬台国らしいという結論であった。
九州でもなく、大和でもないのは意外で、また三角縁神獣鏡は中国ではつくられていないという説もあるが、それには触れずに、ただ鏡の分類整理学的な結論だったので、ひとつの仮説と考えるしかない。
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九州では福岡県前原市の平原古墳で出土した日本最大(径465mm)の鏡は内行花文鏡で、破砕されていた。
奈良県下池山古墳で出土したものは376mmで少し小さいが、おなじ内行花文鏡(連弧文)で、割られず完全な形であった。
中国より大型の銅鏡が九州で最初に作られた弥生時代後期、そして色んな文様を考案した当時の技能者の民芸的価値は、非常に進んだものであり、どんな社会であったのか興味が深まるばかりである。
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# by gfujino1 | 2007-07-14 16:26 | 郷土史

博多「古渓町」

郷土文化の継承に努め、2004年6月に亡くなった生粋の博多っ子、故西頭昭三さん(享年75)をしのぶ会が14日、福岡市博多区のホテルで開かれた。
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西頭さんは1928年、同市博多区の旧古渓(こけい)町(現奈良屋町)生まれ。同町で育ち、土建業を営みながら、博多祇園山笠では同町の取締などを歴任した。

 66年の町界町名整理に伴って同町名は消滅したが、西頭さんはその証しを残そうと、97年に地元に土地を購入。同町名の由来となった禅僧、古渓和尚ゆかりの井戸「古渓水」を復元して開放した。場所は古地図の赤○付近。

京都大徳寺の古渓和尚は三成の讒言により秀吉の勘気にふれて、博多にながされ3年間ここにすみ、点茶用水の井戸を掘ったという。これは火除けのまじないにも珍重されたという。古渓和尚の像は奈良屋町の報光寺に安置されている。

古渓町地域は袖の湊時代からの魚問屋町で、その筆頭は西浜屋の博多八丁兵衛と自称した西頭徳蔵で、昭三さんはその子孫であるという。この功績がたたえられ、2003年には博多町人文化勲章を受章している。
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# by gfujino1 | 2007-07-14 15:40 | 郷土史

今在家の若八幡

今在家という集落の公民館前にある若八幡宮は、かっての鎮守の森の神様であったらしい。
周辺がしだいに開発されて、住宅や店舗や消防署などが建ってきたが、まだ田園もかなり残っていて、農村風景のなかにある。
その前の道路が拡幅されたため、お社の移築が行われていたが、この春ようやく完成した。
周辺の木も少くなって、厳かな雰囲気は減ったが、新しいお社は朝日をあびて輝いていた。
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# by gfujino1 | 2007-07-14 15:26 | 郷土史

二見ヶ浦

三重県志摩半島の二見ヶ浦は全国的に有名であるが、福岡県志摩町の二見ヶ浦は、地元の人しか知らないであろう。
福岡市西区から志摩町にはいってすぐの海岸にあり、福岡黒田藩が信仰した桜井神社の鳥居が、最近つくられた。
これが出来てからはじめて出かけたが、鳥居という人工物が近すぎて、ちょっと景観がわるくなった印象をもった。
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海上には地震で有名になった玄界島がうっすらと眺められる。
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きれいな砂浜が続き、曇天ながら悠久の自然を感じさせる風景である。
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# by gfujino1 | 2007-03-18 11:45 | 郷土史

伊都国の王墓

伊都国には、3つの王墓がある。平原王墓、三雲南小路王墓、井原鑓溝王墓である。
王墓とは、墓の埋葬品に鏡、剣、勾玉の3種類がそろっていることを条件としている。
伊都国の代表の平原王墓は平原遺跡公園にあり、昔は木棺が現地にあったが、今は円墳の土盛りがつくられ、その中身は伊都国歴史博物館のなかに常設展示されている。
古墳といわずに王墓というのは、墓の時代が弥生時代(3世紀なかば)だからである。
古墳とは古墳時代(4世紀以降)につくられた前方後円墳と定義されているからだそうだ。
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しかし原田大六さんはあえて平原王墓を弥生古墳と命名していたので、公園にはその名前の石碑が建っている。
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(これはファナックの稲葉清右衛門社長らが寄贈されたものだが、本人は字が下手なので、神田学長にお願いしたと話されていた。神田学長は化学が専門で、平原の大鏡の成分分析を依頼されたのが縁で、遺跡の歴史研究にはまりこんだそうだ。最初は鏡の破片などには触らせてもらえなかったが、写真撮影して破片の形を切り抜き、ジグソウパズル式に組み合わせに成功し、やっと考古学者の仲間に加えてもらったということだった。)

古墳時代は4世紀からと考えられていたのに、最近は箸墓古墳など3世紀なかばの説もおこり、弥生と古墳時代の区切りが混乱してきた。
また伊都国周辺でも、3世紀末あたりの前方後円墳が存在することが明らかになり、邪馬台国を古墳の国「大和」ととする説は、あまり迫力が無くなってきた。
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特に大きな鏡の出土は、古くから圧倒的に西日本に多く、それがしだいに東の大和の方に移動していったことは明らかで、鉄の道具や武器と同じ傾向を示しているいるから、古代の先進国は九州であったことは明白である。
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# by gfujino1 | 2007-03-17 18:17 | 郷土史

元岡瓜尾貝塚

志摩町の元岡地区は今九州大学の新キャンパスの工事がすすみ、すでに工学部の移転が行われているところである。
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このあたりは志摩と前原の間の入り江があった場所で、縄文時代の貝塚や弥生時代後期の古墳が多く存在する。その一つは瓜尾貝塚であり、有名な大森海塚と同じように、貝殻が直接みられる珍しい存在である。
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すでにすぐ近くまで人家がせまっているので、保存がいつまで出来るか心配なくらいだ。
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# by gfujino1 | 2007-03-17 17:04 | 郷土史

今津の元寇防塁

博多湾につくられた元寇防塁の遺跡は数箇所あるが、一番大規模に掘り起こされて整備されたのは、今津のものである。
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海岸沿いに1Kmちかく埋もれているものを、半分くらい堀起こして整備され、昔の姿を目の前にみることができる。
ここの築造担当国は日向と大隅で、花崗岩と玄武岩をつかい、繋ぎ目はジグザグになっている。
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まだ半分は埋もれたままで、頭の石だけが砂地に顔をだしている。
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河野静雲の「濤の音 太古の響 神の音」の句碑もあり、松林のなかに風流な雰囲気をつくりだしている。
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近くには元の兵士を祀る蒙古塚もあり、モンゴルの移動住宅(ゲル)の模型もおかれていた。
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# by gfujino1 | 2007-03-17 17:00 | 郷土史

舞松原古墳

香椎宮の南の小山にある舞松原古墳は、以前から一度出かけたと思っていた。
周辺がすっかり住宅街になっているので、案内者がいないとわかりにくい場所である。
地図情報をしらべ、周辺を一周して、ようやく今日古墳の上まで登った。
けっこう急な登り坂で、若いころのようにすいすいと登れない。
息切れして小休止し、脚力の衰えを感じながらやっと登りついた。
4世紀末の古墳で、帆立貝の形をした長さ37.4m、高さ4.5mで、円の径は29mである。
ただし小山の頂上にあるので、眼下に周辺の住宅街が見渡せる。
墓は竪穴に木棺直葬、鉄斧、鎌、鋤、縁壷などが出土し、八稜鏡、青磁碗、皿など平安時代のものも発見されている。
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むかしは禿山とよばれていたらしいが、今は大きな樹木に覆われている。香椎ヶ丘緑地の一つになっていて、いろんな植物や小鳥の生息の場所になっている。
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このあたりの古図によれば、もっと海岸線(香椎潟)に近い場所で、博多湾も展望できたであろうが、今は埋め立てがすすんで、海面は見えない。
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# by gfujino1 | 2007-03-01 18:13 | 郷土史

赤い衣装の地蔵さま

福津市若木台団地の南東に久末貯水池があり、周辺は総合運動公園ちなっている。
その一角に2体の地蔵様と祠があるが、何を祀っているのか調べてくれとたのまれた。
福間町の資料やふるさと学ぶ隊などの資料を調べたが、なにも書かれていない。
今日現地にでかけたが、写真のような小さな祠の中に石碑があり、後ろには大きな楠の木があり、その手前の赤い衣装の地蔵様が2体鎮座している。
近くには人家もないし、たまに散歩する人が通る程度である。
昔の唐津街道からは1Kmくらいはずれているから、周辺農民の貯水事業に関連する記念碑か、雨乞いなどの祈りの場所だったのだろうか。
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# by gfujino1 | 2007-02-22 21:22

三代の太閤水(飯銅水)

唐津街道にはいくつも太閤水と呼ばれる井戸があります。
秀吉が朝鮮出兵を計画したとき、唐津街道が整備され、街道沿いに井戸が多く掘られたから、太閤水と呼ばれるようになりました。
新宮町の三代にある太閤水は、江戸時代の筑前名所絵図にも描かれたくらい有名でした。この絵には、井戸の前にたたずむ僧侶の姿が描かれています。その由来が古文書に書かれていること最近しりました。
堺の豪商で茶人としても有名な津田宗久が、秀吉に従軍して糟屋にきたとき、三代の里人に水源をたずねたところ、飯銅の水(炊事用の水)を教えられたので試しに飲んでみたが、良い水ではなかったので、少し離れた崖の下を掘って水を汲むと、茶に適した水がでてきました。
秀吉が名護屋からに帰路に馬を休めて水を飲ませ、この新しい井戸を宗久が彫ったことを知り、「宗久水」と名付けました。
その後宗久の子の江月宗玩はす出家して、その師春屋宗園とともに黒田如水や長政と親交があり、大宰府にあった崇福寺再興のために何度も三代経由で福岡に来ますが、この宗久水に気付かずにいました。
寛永5年に千代町に再興された崇福寺に下向して京都に帰る途中で、40年前に父がこの井戸を掘り、宗久水となずけられたことを初めて知り、感激して「飯銅水記」をかき、その最後に漢詩を残しています。
「三代村辺一日情 里人留我夕暉傾 先來再拝嬰児泣 野水空存亡父名」
宗玩は飯銅水記の文書で、井戸の名前を昔の飯銅水にもどしたようで、貝原益見の「筑前国続風土記」には「飯銅水(はんどうみず)」となっています。
その筑前国名所絵図の墨絵に、私がCGで色付けをしてみました。
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現在でも、この井戸は現在でも、名水として付近の人々に利用されています。
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# by gfujino1 | 2007-01-31 18:13 | 郷土史

久山町の古墳調査

福岡歴史彩発見行事で、久山町の展示場を見学にでかけた。
こじんまりした展示場であったが、一応古墳の場所の地図と出土品が展示ケースの中に、整然とならべられていた。
昨年より少し出土品がふえているようだ。
この程度なら、古賀市も展示可能であるが、今年はこの行事に参加していないのが、残念である。
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# by gfujino1 | 2007-01-15 21:29 | 郷土史

香椎の兜塚

JR香椎駅の北側800mの場所に、神功皇后の兜塚がある。
今日はじめて現地にいってみた。
香椎宮の飛び地になっていて、300坪位の小さな公園のなかに、大きな石がある。三韓征伐の頃の神功皇后伝説の一つで、この地に兜を埋められたものが、石になったという。旧唐津街道沿いにあり、他に猿田彦や三穀物などの石碑もある。
ただ後日談があり、江戸時代にこの兜形の石を庭石にした玄庵とかいう医師が、その後家族に不幸が続き、子供の玄伯が、あわててもとの場所にもどしたとか。
周辺はもうマンションが建ち並び、アンバランスな存在になっていた。
行楽日和で、唐津街道には立花山登山のリュック姿が沢山みられた。
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# by gfujino1 | 2007-01-15 21:28 | 郷土史

岡垣町の古墳

福岡県岡垣町の古墳群から発見された埋蔵物が、町の公民館で展示された。
土器、刀剣、鎧など5~6世紀のものが中心であったが、古墳の場所の地図
などの説明パネルがなく、さびしい展示であった。
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# by gfujino1 | 2007-01-15 17:15 | 郷土史

古代の楽器展示

福岡埋蔵文化財センターでは、古代の楽器の展示をおこなっていた。
その幾つかを写真撮影したので、紹介しる。
1)銅鐸
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2)土笛-1
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3)やしのみ笛
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4)土笛-2
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5)琴
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その他、笛や太鼓などの埴輪の写真なども展示されていた。
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# by gfujino1 | 2006-12-24 13:26 | 郷土史

唐津街道の太閤水と原町宿場跡

何箇所もある太閤水だが、いままで自分の目で確認していたのは、新宮町三代のものだけであった。
今日は、古賀市旦ノ原と、福津市畦町の太閤水を写真とりにでかけた。
地図では十分しらべて出かけたが、往路は車の左側のため発見出来ず、帰路にようやくみつけることが出来た。
想定外だったのは原町の宿場町で、唐津街道の灯篭がならび、道路はカラー舗装され、古風な民家を改造したお店(古美術、薬局、レストラン、衣料店など)が並んでいて、湯布院のまちなかのようなレトロな感じだった。
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        旦ノ原の太閤水
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        畦町の太閤水
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        原町の宿場通りにあるお店(楽市楽座)


古民家を利用した街道蕎麦屋は屋号を「たからい」という。ここにはいって昼食をとる。
座敷には西郷隆盛の書がかかり、広い庭をながめながら食事をしていると、江戸時代の雰囲気となる。
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                   街道蕎麦屋「たからい」の入り口
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               蕎麦のどんぶり
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               座敷に掛けられた西郷隆盛の書
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# by gfujino1 | 2006-12-01 19:54 | 郷土史

唐津街道・筵内

古賀市のなかで、筵内地区には有名な遺跡が多い。唐津街道が通っていたから、医王寺、渓雲寺、熊野神社などがあり、旦の原の井戸なども有名である。
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浄土院はそれほど知られていないが、落ち着きのあるお寺で、今日でかけてみた。門前のケヤキの紅葉がきれいであった。
すぐ近くに、十一面観音のお堂がある。
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少し北にすすむと、浄水場の前の小山は、茶屋の山といって、昔の茶屋があった場所らしい。
さらに進んで大根川をわたると右手の高柳池の堤防の下に、山の神の祠がある。
地元住民や旅行者の守護神で、交通安全などの信仰をあつめた場所のようだ。
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# by gfujino1 | 2006-11-21 19:54 | 郷土史

新原・奴山古墳群

新原・奴山古墳群は最近国指定遺跡となり、8次までの発掘調査が行われ、周遊道路などの整備が始まっている。
53基の円墳、5基の前方後円墳、1基の方墳などがならんでいる。
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               円墳の一つ
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               前方後円墳の一つ
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# by gfujino1 | 2006-10-04 08:51 | 郷土史

鐘崎の貝塚古墳

鐘崎と瀬戸交差点の中間地点の松原のなかにある貝塚古墳。
字名は上八と書いて、「こうじょう」と読む。
松原の東側の山麓には、宗像氏の最後の党首、氏貞の墓があり、その菩提寺「承福寺」がある。この寺は朝鮮通信使と徳川家康の交渉復活に苦労した景轍玄蘇和尚が若い頃修行したところである。
貝塚のことは聞いていたが、昨日はじめて現地にたちより、見学した。
縄文時代の土器(3000年前)などが出土したという。
鐘崎式磨消縄文土器と名づけられているそうだ。

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# by gfujino1 | 2006-10-04 08:20 | 郷土史

宗像市の平等寺瀬戸古墳

宗像市のは多くの古墳があるが、発掘し調査されたあと、市の指定文化財として整備し保存と活用がされているものの一つに平等寺瀬戸古墳がある。
古墳時代の円墳で、直径は20m高さは5m規模ですが、太刀鞘金具、弓金具、馬鈴などの出土品が多数多数でている。
9月の郷土研究会で石室内部まで案内されて、その見事な保存状況に関心した。
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# by gfujino1 | 2006-10-03 18:06 | 郷土史

青柳宿の灯篭復元

唐津街道の青柳宿は、江戸時代の最盛期には100軒を超える宿屋があったという。
今はさびれて、昔の面影はない通りであるが、西の構え口の石積みが残っている。

最近市の町おこし運動で、青柳四つ角に、青柳宿の詳細な掲示板と灯篭が復元された。

古賀郷土研究会でも、ガイドマップを制作して、PRに力を入れることにしている。

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# by gfujino1 | 2006-09-06 17:27 | 郷土史

JR九州の歴史

鉄道ファンのかたならご承知の話。
博多駅のコンソース、中央改札口付近の一本の柱に、写真のような外国人の像がはめ込まれている。 大勢の人の流れがこの前を過ぎていくが気づく人は殆どいない。
福岡県下の鉄道は1889年に、民間の九州鉄道会社によってつくられた。
1872年に開業した新橋-横浜間はイギリス方式、1880年に開業した北海道はアメリカ方式であったが、九州鉄道はドイツ方式を採用。
ドイツ国鉄の機械監督ヘルマン・ルムシュッテルを招聘し、ドイツ製の機関車やレールを博多港から陸揚げして、博多-久留米間が完成した。
1889年12月11日一番列車が、博多-久留米間を走った。
この貢献者ヘルマン・ルムシュッテルの像だが、あまり目だたないのが残念だ。
いまの博多駅舎は、旧駅舎から600m南東の今の場所に移転し、また新規に建て替えられる予定であるが、この貢献者ルムシュッテルの像は残してもらいたいものである。
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# by gfujino1 | 2006-06-23 11:58 | 郷土史

福岡と唐津(奴国と未盧国)

玄海灘に面した北部九州には、かめ棺が出土する。
昨日聞いた唐津周辺の発掘調査の報告では、福岡と唐津と で大きな差があるそうだ。
福岡地区では通常二つのかめを水平に向い合わせにおいて そのなかに遺体をいれて、
接合部を粘土で封じる。
唐津地区では、一個のかめを逆立ちにおいて、 折り曲げた遺体にかぶせている。
人骨から唐津のほうが、背たけが低いことも判明したそうだ。
弥生前期には、唐津の末盧国と伊都国の間に大きな 人類文化の差があったことがわかる。
弥生後期になると末盧国は停滞し伊都国、奴国は繁栄して、伊都国には 魏の使者が駐留するところとなった。その理由は?
魏志倭人伝のなぞがまた一つ増えた。
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# by gfujino1 | 2006-06-23 07:34 | 郷土史

大志登古墳(手光波切不動尊)

福津市の旧3号線にある手光バス停の近くに、大志登古墳がある。
通称では手光波切不動尊と呼ばれている。
旧国道沿いで車の往来も多く、民家の前庭になっているから、古墳の趣がないが、宮地嶽古墳に次ぐ大きな巨石遺構としられた古墳である。
福津市の図書館にでかけたついでに、足をのばして立ち寄った。
旧国道沿いに落石設備工業があり、(この敷地内にも別の古墳が1基あるそうだ。)その横に2本の石柱がたっており、ここから入ると正面に写真のような古墳の入口がすぐみえる。
天上と側壁で計16枚の板石から石組みされた古墳で、古墳時代末期の宗像海人族の首長である宗像徳善クラスの墳墓と推測されている。
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筑前国続風土記拾遺にも紹介されているので、江戸時代から知られていたことがわかる。
また明治初年に編纂された福岡県地理全誌にも「不動屈」として紹介されている。
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最近郷土史会のメンバーと再度でかけたら、入り口の上の石が落下してました。
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# by gfujino1 | 2006-05-30 12:30 | 郷土史

古賀市の散歩道「あるいてん道」

古賀市では数年前から市内に散歩道を整備している。
今年は5番めのあるいてん道が、市の西北の薦野にできた。
天降神社を起点にして、川沿いの道を清龍寺までのぼり、そこでUターンして
もどるコースです。
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今までのコースは、つぎの4コースでした。
1)市役所を起点にして、青柳川沿いにのぼるコース。
2)花鶴公園を起点にして、海岸をあるくコース。
3)薬王寺公園の池一周コース。
4)花鶴ヶ丘周辺のコース。
この天降神社の境内には写真のように、大きな楠木がある。
市内の巨木の一つに指定されている。
市の職員さんで郷土史にくわしい人によると、立花城主がかくした埋蔵金が、古賀周辺の
「一日中陽のあたる楠木の下にある」という言い伝えがあるらしい。
この楠木はたしかに一日中よく陽があたる場所である。
埋蔵金の候補地の一つであるが、その境内ではゲートボールが熱心に行われていた。
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# by gfujino1 | 2006-04-25 10:37 | 郷土史

古賀市 永浦古墳

古賀市と新宮町の境界近くで発掘された「永浦古墳」からは、鎧兜や太刀などの武具が発見され、6世紀ころの地元武将の墓と推定されている。
その発掘品の展示が、この秋の「歴史彩発見」で、総合的に展示された。
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古墳のあとは、住宅団地となり、記念公園などの計画がないのは残念だと思っていたら、
最近の情報では、田淵遺跡に近いほうに歴史公園が出来るようだ。
開発された住宅団地の地名も、糟屋の屯倉(みやけ)にあやかって、美明(みあけ)という地名になるようだ。
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# by gfujino1 | 2005-12-04 12:10 | 郷土史

宗像三社と神湊

いま宗像大社の沖の島が世界遺産に登録されるように運動中である。このため大社や周辺の末社までいろんな調査がおこなわれており、早稲田大学の吉村作治教授たちもこられたという。
宗像大社はよくお参りするが、沖の島はまだお参りしていない。いやもうお参り出来ないのだ。
男性で70歳以下の年齢制限があるからだ。また女性は沖の島には渡れない。
手前の筑前大島の北岸に、沖の島遥拝所があるのは、これらの人たちが、せめてここから沖ノ島を遥拝するための場所であるという。はるか海のかなたの沖の島をおがんだが、当日は霞がかかって肉眼では確認できなかった。
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また大島の南岸には、宗像大社中津宮が港のすぐ近くに祭られている。もともとはこの中津宮のために港ができたのであろう。九州本土の宗像大社には辺津宮がある。宗像大社は、あくまで沖の島が宗像三女神の中心であり、大島や九州本土の宮はその別れと考えるべきである。
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毎年秋季の放生会が行われる。この時には三女神が辺津宮にあつまるという祭礼がおこなわれる。これは玄界灘の秋を彩る宗像大社の海上神幸「みあれ祭」とよばれ、地元漁協の漁船約400隻が大漁旗をはためかせ、大島から対岸の神湊まで15キロを海上パレードする。
 約700年前から伝わる同大社秋季放生会の幕開け行事で、五穀豊穣(ほうじょう)や豊漁に感謝する。「みあれ」とは新しい霊力をいただくという意味。同大社の三女神のうち、沖ノ島の沖津宮(おきつぐう)と、大島の中津宮(なかつぐう)にまつる女神の御座船(おざふね)が漁船団に守られながら海を渡り、神湊まで出迎えた辺津宮(へつぐう)の女神と年に1度の再会を果たす。
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また宗像大社では、3日間の放生会の間に沢山の出店が並び、大勢の参拝客がおとずれる。
大社境内では、古来の舞や流鏑馬(やぶさめ)などが催される。今年は曇りの天気であったが大勢の人出でにぎわっていた。
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 秋季大祭の最後の夜には神事「高宮神奈備祭(たかみやかんなびさい)」が、暗闇にかがり火がゆらめく幻想的な境内で行われる。太宰府天満宮から招かれたみこが悠久の舞を奉納した。
同大社で平安時代後期から行われていたとされる「八女(やおとめ)神事」が由来で、1375年に書かれた古文書「応安神事次第」に最後の記録が残る。合併で同大社の3宮がすべて同じ宗像市の所在となったのを機に、630年ぶりに復活させることにしたという。
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神湊を中心に、津屋崎から鐘崎までの海岸線は筑前名所絵図にも描かれているくらいの優美な風景である。
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# by gfujino1 | 2005-09-25 07:09 | 郷土史

多々良川河口の風景

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多々良川河口の風景は福岡でも風光明媚で有名であった。
大正時代にはフォード自動車の宣伝広告写真の背景に
えらばれている。
背景の名島大橋はまだ木造である。

名島の弁財天には近郊から多く人がお参りにきていた。博多湾内にはそのため特別の航路ができ、地元には専用の旅館もあった。いまはマンションになっている。
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名島発電所の奥には、水上飛行場があり、国内唯一の国際飛行場であった。
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河口にはヨットが沢山帆走している。九大のヨット艇庫があったからである。
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ヨット部の学生は女性の人気がたかかった。ただしこれは終戦後の写真で、フラウもこのなかの一人であった。
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# by gfujino1 | 2005-09-05 22:03 | 郷土史

名島城と妙見島

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博多湾名島はかって小早川隆景が築いた名島城があった。その沖合いに妙見島という小島があり、名島から小船で簡単に渡れる観光場所であった。隆景が普請の陣頭指揮をしている所へ、神屋宗湛や嶋井宗室らが普請お見舞いに酒や肴を進上し、妙見島の海岸で酒盛りを開いたという。
また秀吉も島津征伐や朝鮮出兵などで九州入を何度もしているが、名島城にきた時は、この島で茶游会を開き、その時使用した井戸の跡が今も存在する。
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戦後この浅瀬は埋め立てられて、名島と地続きになってしまった。名島の帆柱石の方から見ると、マンションの影に隠れて島の形は殆ど見えない。
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沖合いに出来たみなと100年記念公園の方から見ると、島の形がのこっており、島の松などもこんもりと繁っている。この山腹にある建物は民間会社のもので立ち入れないが、このあたりに古井戸があるらしい。
黒田長政が名島城を取り壊したとき、天守閣のあった山頂を博多商人に払い下げたというから、妙見島も当時から民有の島になっていたのかもしれない。
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多々良川の河口には新しい香椎かもめ大橋がかかって、人工島や海の中道との往来の車がひっきりなしに走っている。
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昔の面影は江戸時代の筑前名所絵図で味わうことができるだけである。
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名島城の存在したころの城下町の地図ものこされている。
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現在城跡の発掘調査が行われており、ちかく記念公園としてオープンされる予定である。
この山頂からは立花山が真向かいに展望できる。
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人口砂の海岸の石垣には昔の景色の写真がとりつけられている。
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埋め立て地の一部は記念公園になっている。
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帆柱石の手前には松の木がかろうじて1本だけ残っている。
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# by gfujino1 | 2005-08-09 18:26 | 郷土史

光雲神社

福岡市の西公園にある光雲神社は黒田の殿様を祭ったお宮であることは小学校時代から知っていた。私は西公園の下にある師範付属小学校に4年生からかよっていたからである。光雲神社での学校の行事も多く、登りの石段で記念写真をとったり、冬に大雪が降るとクラスで山に登って雪合戦をしたりしていた。
しかし神社の名前の {光と雲」が黒田如水と黒田長政の戒名からとったものであることは、最近知った。そしてこの神社は福岡城のなかにあったのを、明治維新後に西公園に移したこともわせて教えられた。城内は政府軍の練兵場として使われるようになったからである。

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ではその前に西公園にはなにがあったか? 筑前の東照宮があったそうでだ。
しかし徳川幕府が滅びるとともに東照宮が取り払われたの当然であろう。
黒田家のお家騒動で、幕府に危うく取り潰されそうになった忠之公は、幕府の機嫌をとるために、日光東照宮にあやかって、筑前東照宮の建立を願い出て、西公園の山頂に東照宮をつくり、同時に天台宗の寺院も西公園に建立した。幕府の最高ブレーンであった天海和尚が天台宗だったからで、地元の天台宗の総本山をここに建立したのである。寺は明治維新後の廃仏棄釈で取り壊されたが、仏像などは古賀市の清瀧寺に移された。黒田藩は徳川幕府さまさまの政策をこの頃から幕末まで続けた。



しかしお隣の小倉藩でも同じころ小倉の延命寺に東照宮を建立している。当時の小笠原藩主が老中になりたいと思い、これも幕府の機嫌とり政策であった。黒田ばかりを責めるわけにはいかない。
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黒田長政の有名な水牛の兜の像と、黒田武士で有名な母里太兵衛
の像が境内にある。
長政は関が原の戦いの最中に水中に落ちたが、この長い角が水面に突き出していたので、なんとか助けられたという。
母里の槍は黒田家が保管していたが、明治維新後経済的な困窮時に一時売られていた。
めぐりめぐって、もと藩士で財をなしたY家の所有となったが、最後には黒田家に返却されたという。
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# by gfujino1 | 2005-08-04 17:26 | 郷土史

芭蕉塚・諏訪神社など

福間小学校の周辺には、福間の歴史をしめす遺蹟が多い。
西鉄線路に近い場所に宗像宮がある。いまは小さな祠があるだけだが、宗像神社の遥拝所であり、また神輿宮神幸の折の雨天休憩所であった。大正年間までは、雨乞の神事でここまで御神輿が下っていたという。この敷地の一隅に芭蕉塚がある。
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芭蕉塚の名前から芭蕉が福間に来たのか?と思う人がいるが、そうではない。彼は大阪から長崎に行く予定であったが、食中毒で大阪で亡くなった。その後この石碑は1843年に福間の俳句同好会である蓑生連が、芭蕉の威徳を偲んで建てたものである。裏面には「奥の細道」の越後路の中にある句「芙美月や六日も常の夜にも似す」が刻まれている。明晩が七夕だと思うと今夜はいつもの夜と違った趣だ、という句である。この時代の俳句同行会は博多や今宿などにもあったが、東側では福間が進んでいたようだ。
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福間小学校のすぐ東に諏訪神社がある。御鎮座の来歴は千年以上前からといわれ、本町、南町、緑町、大和町の氏神である。有名なのは県指定の文化財である「鰯網大漁絵馬」である。
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すこしピンボケであるが陸上と海上に400人の漁師の働く姿が描かれていて、漁労民俗絵馬の傑作とされている。一部の拡大図をつぎにしめす。
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神社の裏手に又ぜーの墓がある。江戸時代はじめに下西郷村に又左衛門という馬方がいた。民話では諧謔、奇行、機知、ほら吹きなど抱腹絶倒する話が17ある。墓は大善寺の管理地内の草むらのなかにひっそりとおさまっている。
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# by gfujino1 | 2005-07-16 21:54 | 郷土史