野菊


青柳街道から少し山手をとおる「小路」という地名の静かな
散歩道です。
青柳川の支流があり、いつも綺麗で豊かな水が流れています。
川沿いには黄色の野菊が咲誇っていて、江戸時代とあまり
変わらぬ風情を示しています。

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# by gfujino1 | 2004-10-14 12:20 | 日常生活

コスモス


秋を感じる代表的な花コスモスがあちこちに咲乱れています。
この辺は小竹の「縫ヶ浦」という地名地区です。
結構山裾なのですが浦という名前がついています。
浦は裏につうじるので、陸地でも小字に多くつかわれています。
古賀市では語尾の文字が浦のところが20、裏のところが9あります。

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# by gfujino1 | 2004-10-14 11:53

白鷺


暑い夏が終わったあとは一気に秋の気配が広がっています。
稲刈りが終わった田圃には白鷺の姿がみえ、毎朝の散歩の
楽しみが増えました。
小竹のこの辺の小字は六反田という地名で、近くには犬馬場と
いう地名もあります。犬を乗馬で追いかけて射る訓練場だった
そうで、立花城下の土地ならではの地名です。
青柳氏の管理であったようで、青柳氏は鏑流馬の名手だった
そうです。犬の他に鳥類も射ていたかも知れません。

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# by gfujino1 | 2004-10-14 11:25

吉行和子の一人芝居『世紀末の伯爵夫人』


新宮町の『そぴあ新宮』で、一人芝居なるものをはじめてみました。
吉行和子は吉行淳之介の妹で、最近話題になっている近代映画「折り梅」
で田中絹代賞を受けた女優さんですね。
旧姓青山光子は、在日中のオーストリア・ハンガリー代理公使ハインリッヒ・
クーデンホーフと運命的出合いをします。このとき19歳、これから運命が
急変し、困難を乗り越えて結婚し伯爵夫人となり、オーストリアで7人の
子供をそだてながら、夫の急死や第一次大戦などのなで、波瀾にとんだ生涯
をおくります。
回想や会話をおりまぜながら、90分の中でこの一生を演じたのは、見事な
演技でした。その次男がヨーロッパ共同体の提唱者で、この思想が現在の
ユーローを生み出したのが、我々に親近感を覚えます。
写真はチラシデザインに応募したときにもらったものです。本人とは終演後
出口であい撮影しましたが、すごい手ぶれでした。

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# by gfujino1 | 2004-10-11 14:32

    青柳氏と飯盛神社


古賀市には唐津街道の青柳宿跡があります。
近くの青柳地区の石互には今も青柳姓の古い農家が数軒おられます。
青柳の地名のルーツをたどると、中世には青柳氏が領有者であったとされ、
そのご子孫は神官となられ、早良区の飯盛神社にもおられるようです。
毎年恒例の鏑流馬の名手にも青柳氏があられます。
写真はSNFの古藤さん撮影のショットです。

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# by gfujino1 | 2004-10-11 11:18

  稲刈り


実りの秋で、あちこち稲かりと脱穀がはじまっています。
このあたりの田圃は、旧唐津街道、青柳の五所八幡宮の近くで、
小字が神田、迎田、藤津田など古い地名がついています。
古賀市には、小字名が584ありますが、その語尾に「田」がつく名が
80もあり、田園地帯であることを立証しています。
今年も豊作のようで、有難いですね。


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# by gfujino1 | 2004-10-09 18:23

    なつかしい映画ポスター


戦後の名作映画のポスター展が古賀市のサンフレア会場で開かれました。
ローマの休日は、楽しい物語のなかで、世界遺産的ローマの遺跡などを堪能
できました。ローマには2回旅行しましたが、映画やテレビで再三見れるので、
京都なみの親しさを感じますね。九州の歴史とはやはりキリスト教でのむすび
つきですね。最近なくなられた北里先生もヘップバーンのファンだったそうです。


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# by gfujino1 | 2004-09-29 11:28 | イベント

小学校の机

豊北町の歴史資料館で、むかしの小学校の机が展示されていた。
むかしの生活用品の展示はよくみかけるが、学校の机の展示は珍しい。
わたしの時代も同じもので、二人掛けで机の上の板をあけると文具や
教科書がいれられた。
わたしの記憶では、この板の裏に先輩の名前が墨で書き込まれていた。
そのトップに中野正剛、緒方竹虎、渡辺OOとかかれていた。
中野正剛は6年生のとき、母校訪問で講演にこられたことを憶えている。
わたしの名前を書く余地はもうなかった。
福岡男子師範付属小学校は戦災で焼けて、その机ももう無い。

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# by gfujino1 | 2004-09-08 11:25 | 郷土史

土井ヶ浜遺跡


出雲と宗像の中間に豊北町があり、ここの砂丘に土井ヶ浜の遺跡がある。
弥生時代の人骨がたくさん発掘された場所で、人類学ミュージアムができている。
また弥生時代の人家模型もできている。
出雲と宗像の聯合に一役かった人たちであったかもしれない。

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# by gfujino1 | 2004-09-08 11:09 | 郷土史

出雲と宗像

3月に久しぶりに出雲大社に参拝した。出雲と宗像の関係が深い
ことをきいたからである。
律令時代には、ふたつの郡は神郡として特別のあつかいをうけていた。
どちらも評造(郡司)に三等親以上の親族が複数つくことが特に許されていた。
神話にも、大和朝廷からの使者が出雲に来たとき、郡司が宗像にでかけて
留守であったことが記されている。
その他共通する点が多く、出雲と宗像は強い連合関係にあったようだ。

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# by gfujino1 | 2004-09-08 10:45 | 郷土史

小竹の石碑ー3

唐津街道沿いにはもひとつの石碑が小竹にあります。
清水市郎右衛門翁の石碑です。
彼は小竹の農業の新種について研究し、小竹の土壌に適した柑橘類を最初に着目しました。
そして中国よりその苗木を取り寄せて、まず自分の農地でためして、結果がよいことを確認したうえで、青柳、小竹村に奨励しました。
今日の立花蜜柑の最初の基礎をきずいた功績を称える石碑です。
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平成22年道路拡幅工事のさいに、二つの石碑は、一ヶ所にならべられました。
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# by gfujino1 | 2004-09-07 21:57 | 郷土史

小竹の石碑ー2

小竹の唐津街道沿いに清水喜一郎翁の石碑があります。
彼は大正初期に農村経営のありかたを研究するため他国を調査してまわり、一村一家主義をとなえ、農業組合や、農協の前身の組織を提案して、小竹村の農業の安定した繁栄に貢献し、県会議員などもつとめました。
清水市郎右衛門氏の兄で、柑橘栽培のヒントを弟に与えたようです。
この功績に報いるための石碑です。
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現在は兄弟の石碑がならんで建てられています。
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# by gfujino1 | 2004-09-07 21:40 | 郷土史

色姫の墓


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古賀市の史跡のなかでも、一番悲劇的ロマンにあふれているのが、この色姫の墓であろう。
戦国時代に立花城の立花道雪と宗像城の宗像氏貞の間で何度かの争いがおこり、和睦の条件として氏貞は妹の色姫を人質として道雪の側室に送った。
その後再度の争いがおきて色姫は自殺をしてしまう。
今は付き人として来ていた清水家の庭先にその墓が残っている。
清水家には色姫の遺品の衣類なども保存されている。
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# by gfujino1 | 2004-09-07 21:29 | 郷土史

承福寺(上八)


玄海町に上八という地名があり、コウジョウとよみます。
ここに承福寺があり、代々の宗像氏の菩提寺でした。
写真は現在の承福寺の本堂の外観です。
ここの住職であった玄蘇景轍和尚は、生まれは古賀と福間の境界にある飯盛山城主の河津氏の次男でした。
妹は博多商人の神屋宗湛の嫁になっています。
博多や京都の寺で修行したので、大陸事情に精通していました。
秀吉の時代に李朝との交渉の窓口となっていた対馬藩に招聘され、交渉の任にあたり、和平工作に苦労しました。
江戸時代となって、最初の朝鮮通信使を迎えるための交渉に心血を注ぎ、その成功を見たうえで対馬の地で没しました。

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# by gfujino1 | 2004-09-06 17:35 | 郷土史

相ノ島


古賀の海岸からみた相ノ島の写真である。
朝鮮通信使は江戸時代に、九州には上陸せず相ノ島に宿泊した。
黒田藩は警備上の理由で相ノ島で接待をした。
しかし周辺の漁民はこのために大変な労役を課せられ、しかも
半島の文化との交流は殆どできなかった。
半島からの漂流物を通じて異文化えの思いを感じたのであろう。

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# by gfujino1 | 2004-09-06 16:53 | 郷土史

弘法大師の銅像公園

古賀市の筵内には弘法大師のおおきな銅像を中心とした公園がある。
空海は唐から帰国して2年ばかり大宰府の観世音寺に滞在していたので、
古賀地区には有名な空海伝説があり、巡礼して来たことは考えられる。
地本出身の資産家の寄贈により造られた公園である。

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# by gfujino1 | 2004-09-06 16:34 | 郷土史

箱崎(その3)

唐や宋の人が住んでいた証明に、その時代の中国や朝鮮半島の
陶磁器が沢山発見されました。
写真高麗の青磁器でかなり高価な品物と見受けられます。
下の写真は発掘現場の風景で、マンションや県の宿舎などがある場所です。

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# by gfujino1 | 2004-09-06 16:09 | 郷土史

弥生時代の箱崎(2)


平安、鎌倉時代の箱崎には大勢の唐宋人の居住区になっていました。
10米間隔くらいで井戸のあとが発見され、円形の桶で囲ったものや、
大きな井戸では写真のように円形に基礎石がならべられていました。
JR箱崎駅周辺からこのような住居あとが沢山発掘されました。


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# by gfujino1 | 2004-09-06 15:56 | 郷土史

弥生時代の箱崎

箱崎駅周辺の区画工事にともない、この10年間埋蔵物の調査が行われました。
そして箱崎砂丘地帯には弥生時代から人が住んでいたことがわかりました。
写真はこの時代に甕棺です。このほか円墳や方形墳も発見されました。

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# by gfujino1 | 2004-09-06 15:39 | 郷土史

清瀧寺周辺と米多比・薦野氏

古賀市の北東部の山麓に清瀧寺という古刹がある。
その薬師堂に登る石段の前に梵字をかかげた石の鳥居がある。
神佛習合のしるしで、薬師如来の種子をしめす文字という。

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この清瀧寺付近は、立花道雪の時代に、米多比氏や薦野氏が、道雪の家臣として肩を並べて住んでいました。
道雪は両者との協力関係を強固にするために、血縁関係を結ぼうとしましたが、道雪の身内との年齢差などから、米多比鎮久(シゲヒサ)だけが道雪の義理の娘を嫁に迎えます。
そのあと、道雪の実の娘(誾千代)には岩屋城から立花宗茂を養子に迎えましたから、二人は義兄弟となります。
米多比も立花姓をもらい、秀吉の時代に立花宗茂が柳川に移るとき、鎮久は黒木町の 鷹尾城主(3500石)となります。
しかし関が原の戦のあとは宗茂の失脚のため、加藤清正の家臣となり、3000石の所領を与えられます。
この時、宗茂と不仲になっていた宗茂の正妻(誾千代)とその母(道雪の未亡人)を引き取り、保護します。ともに自分の妻の身内だったからです。
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時がうつり、宗茂が柳川藩主として帰り咲いたとき、柳川に帰参するように誘いがあ りますが、鎮久はしばらくは辞退します。しかし再三の誘いにより、柳川に帰参した鎮久は、姓を立花から米多比にもどし、2000石の家老として宗茂に仕えました。
米多比家の子孫が保管されていた多くの古文書は、最近県立柳川文書館に委託され、保管されているそうです。 また子孫の本家は柳川市に、分家は福岡市東区に住まわれているそうです。
米多比城あとの岡に米多比家の石碑は、ひっそりと建っています。

薦野氏のほうは、薦野増時が道雪が迎えた養子の宗茂の妹を嫁にもらい、立花姓を名乗ったりします。幾多の戦乱で功績をあげ、関ヶ原の戦では東軍につくようよう進言したといわれます。
宗茂が西軍についたため、大阪城の人質救助や柳川城の開放などを手ぎわよくこなし、一旦熊本の加藤に身をよせるが、黒田長政にみとめられて福岡にかえります。
死後は立花城の山麓の梅岳寺の道雪の墓の隣に分骨埋葬されています。
その子孫は黒田藩の要職をつとめ、清瀧寺付近を領有していたので、今でも付近に屋敷あとなどの遺跡が多く残っています。
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# by gfujino1 | 2004-08-28 14:57 | 郷土史

新しい古賀神社


古賀神社は昨年火事で消失し、年末には新い社がなんとか完成して
今年の新年を迎えることができました。
古賀神社は鹿部山周辺の4神社(浦口神社、皇石神社、貴船神社日吉神社)を
昭和27年に合祀して、古賀市役所の前にできました。
町の中央部にあるので、放生会などのお祭りでは最も人出の多い神社です。
そのため放火の被害にもあいましたが、二度と放火な無いように祈ります

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てしまい
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# by gfujino1 | 2004-08-28 14:36 | 郷土史

花鶴浦の移譲

古賀の花鶴川河口には、昔は入り江があり、漁港として栄えていました。
近くの永浦遺跡からは多くの漁具が発掘されています。
しかし海流の影響で次第に港が浅くなり、漁民の数が減った江戸時代に
浦としての漁業権を福間と新宮湊に分割移譲しました。
そのときの文書が福間公民館の資料室に展示されています。

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# by gfujino1 | 2004-08-28 13:12 | 郷土史

千年家のかまど

千年のあいだ絶えなかったかまどの火はいまも新しいかまどの
なかで燃え続けています。
かって織田信長により比叡山が焼かれて、伝教大師の持ち帰った
本家の火が絶えたときは、新宮の横大路家の火を再度比叡山まで
運んだそうです。
オリンピックの聖火をはこぶ以上の価値がある火ですね。

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# by gfujino1 | 2004-08-28 13:00 | 郷土史

千年家

伝教大師が唐から持ち帰ったという火種を新宮町の横大路家で
千年も絶やさずに燃やし続けています。
その千年家も老朽化がすすんで、昨年から改修作業がはじまり
今年の春完成しました。外観はおなじですが、くずれかかっていた
わらやねはすっきりした形になりました。


改修後の千年家

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改修前の千年家
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# by gfujino1 | 2004-08-28 12:52 | 郷土史

古賀花鶴浜の伝教大師銅像

古賀市花鶴川の河口近くの広場に、今年春伝教大師の銅像がたつ
公園が完成しました。
伝教大師こと最澄は、遣唐使船で唐にわたり、帰国の時に嵐のため
古賀の花鶴海岸に漂着したと伝えられています。
この故事にもとずいて地元有志の力で大師をまつる公園が完成し、
花鶴の町おこしの種が一つ増えました。

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# by gfujino1 | 2004-08-28 12:38 | 郷土史

古賀歴史資料館の企画展

企画展 7・19~8・22

シーカヤックの展示

シーカヤックとはアリュウシャン列島に住むアルート族がむかしから生活用具として
つくっているカヌーに似た舟で、荒波につよく一回転しても平気です。
アシカやアザラシの皮でくるんでいるからです。

この製作技術をもつ大田八州徳氏が古賀市在住で、今回の企画展がひらかれました。

シーカヤックは最近レジャー用に注目されています。軽くて持ち運びができるからです。


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# by gfujino1 | 2004-08-28 12:16 | イベント