清瀧水路とは古賀・清瀧村の水を福間・上西郷村までひくために、江戸時代におこなわれた大工事により出来た水路で、当時は「清瀧の仕掛け水」とよばれていました。上の写真はこの水路の一部です。 明和時代(1770頃)諸国で大干ばつがおきて、百姓一揆や大火災がおこった記録が多く、九州でも秋月藩領で千町歩の被害報告が残っています。この干ばつ対策で、わが郷土でも水路の工事がおこなわれました。 清瀧水路の記録は明和九年(1772)の契約書があり、この頃に完成したと思われます。指導者は冨永甚右衛門という郡奉行で、明和六年(1768)より天明五年(1785)まで17年間、表糟屋、裏糟屋、宗像の三郡の奉行を勤めた人物であります。 {古賀は糟屋郡の北端にあり宗像郡に接していますが、古代の蓆内は宗像郡(当時は郡でなく評と記載)に入っており、戦国時代には宗像と立花の争いの地でもありました。それ故黒田藩は三郡を一人の奉行で統治させたと思われます。} 清瀧水路は糟屋と宗像の境界地域にあり、広域の奉行であったからはじめて大工事が可能になったのでしょう。冨永甚右衛門は就任早々から水不足を解決するために、各地に灌漑用の溜池をつくりはじめました。 莚内には、峠の新堤、天神脇堤を築き、宗像では、下西郷堤、上西郷堤を築き、薦野村の川上から旦の原の通し溝を新しく掘るなどの大工事でした。 水路の全長は2150m(千百八十一間)であり、二つの水路にわけられます。 水路1:清瀧川口より大行事原まで(稲作古溝広げ) 四百十五間; 水路2::薦野抱稲作古溝尻より上西郷村堤頭まで(新溝堀) 七百六十六間 古い溝を広げたり新しい溝を掘って下流に水をひくのですが、一番下流の溜池(上西郷村堤頭)を調べてみると、福間・原町の小高い住宅団地の中にあります。下の写真がその池の風景で、今は百田池という名前がつけられており、生活排水の臭いがけっこう強い池になっています。 小高い場所に堤頭を作ったのは、ここからさらに広い範囲の田畑に水をひくためでしょう。周囲にははじめの写真のような古い人工溝が何箇所も見られます。 郡奉行の冨永甚右衛門は在任期間中に、この仕掛け水をはじめ、いくつかの功績をあげました。宗像郡では色定法師の「一人一筆一切経」の編纂や保管などに尽力し、文化面でも功績をのこしています。が、反面その貢租の取立ては非常に厳しいものでしたので、郡民の不平不満がつのり、遂に天明五年十一月に隠居を仰せつけられました。 ただし家督は嫡子の冨永軍次郎が相続し、父と同じく三郡の奉行となったそうですから、通常の相続に近いといえましょう。 古賀と福間の助け合い行事は、双方の町史に記載されていますが、住宅団地に囲まれた現在は、住民のかたにもあまり知られていなようです。そこで古賀郷土史研究会のメンバーが、昨年はボランティア案内人として、小学生を2組ほど案内されました。
by gfujino1
| 2005-03-11 10:50
| 郷土史
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