王塚装飾古墳


2005年4月に嘉穂郡桂川町の王塚装飾古墳を見学した。地名が桂川町寿命376番地という珍しい名前である。
手前の大分宮(八幡宮)を訪問したついでに少し足をのばした。
八木山バイパスをつかい直行すれば、家から40分でいけるかも知れない。
もっと遠いと思い込んでいたし、それほどの遺跡ではないと思っていたのがまずかった。
色彩画の装飾古墳は九州に多く、近場の竹原古墳、五郎丸古墳などをみていたので、同程度のものと思っていたが、日本で重要文化財に指定されているのは、現在は王塚古墳と奈良の高松塚古墳の二つだけという。
そのうちキトラ古墳なども加わるだろうが、たしかにすばらしい構造と色彩である。
高松塚の繊細な絵画にたいして王塚は古代の原始的絵画であるが、5色の絵の具は九州では最多であり,波頭紋、円形紋、三角紋、馬などの動物、星などの天体などが組み合わされていて、構想が雄大である。
そこで2006年4月に家内をつれて再度見学におとずれた。家内も感激して食い入るように壁画を眺めていた。
詳しいホームページもあるので、ここではその一部の写真を紹介する。
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この古墳に眠っている王は誰であろうか?
いろんな説があるが、有力な説は継体王であろう。磐井の乱で筑紫の君磐井を征伐した継体王である。ただし日本書紀に書かれている大和政権の継体王ではなく、豊の国の倭王の継体王であると考えるのが、九州古代史の会の兼川晋氏グループである。
その論文は読んでいたが、2008年10月兼川氏の講演を直接きくことができた。
        講演する兼川晋氏
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継体王が、「この戦に勝ったら長門から東は朕が治めるが、筑紫から西はおまえが治めよ」と物部荒甲にいったことか日本書紀にある。
長門と筑紫の間に豊の国があり、そこが継体王の国だったから、このような配分案がでたのだという兼川氏の説明は、非常に説得力がある。
武王が筑紫の君・磐井であり、軍君が豊の君・継体であり、ともに南韓の武寧王の一族であった。 軍君が武寧王と親交を深めていき、任那の危機に支援を送ろうとしたのに、磐井が反対したことから磐井の乱が起こったという説明である。
一部には筑紫の君を磐井が殺したから軍君(継体)が磐井を征伐したと言う説もあるが、その後の研究で弱まったようである。
武寧王と筑紫の君と軍君の姻戚関係の詳しい説明は時間の関係で省略されたが、文献的裏付けが明確にあるそうだ。
 
桂川の王塚古墳との関係を質問したら、豊の国の継体王の墓であろうと信じているという答えであった。周辺に日の隈という地名が4ヶ所もあり、御所などのあった場所らしい。政治活動の範囲はさらに南の香春あたりまで広がっていたと推定される。

今年の文芸春秋正月号に「理想の死に方」と題して、著名人58人のエッセイが特集された。
死生観は大体4つに分類される。
1)現世だけで、あの世は無である。
 小説家渡辺淳一は、情死が理想の死に方といい、画家野見山暁治は妻の墓もつくらず、初七日もせず、遺骨は海に散らしたという。
2)わが魂はあの世までも続く。
 個人の死は極楽浄土に至る道だと信じて、その安養浄土を願うのがよい。先に逝った愛する家族との再会がまっていると説く僧侶や医者が何人もいる。
3)知人の愛や子孫へのDNAを通じて、この世に魂を残す。
 急死した友人をわれわれが忘れないないかぎり彼は生きているし、彼のDNAを受け継いだその子孫を通じて、彼の魂は存在していると説く人もいる。
4)本人の事業や仕事の業績をを通じて、この世に魂を残す。
 国のため、部族のために自決した武士、大きな事業や業績を残して社会的に貢献した人物などは、そのシステムを通して魂をこの世に残していると説く人もいる。

装飾古墳に入れられた人物は、4)のクラスの人物であろう。宇宙世界のシステムに通じる太陽や星の図に囲まれ、馬や護衛の文様に守られて安らかに眠っているのであろう。

1)か2)のクラスにすぎない私も、せめてCGで王塚古墳的な装飾古墳図をかいて、枕元におきたいと思いはじめた。
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by gfujino1 | 2005-03-13 15:23 | 郷土史
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