光雲神社

福岡市の西公園にある光雲神社は黒田の殿様を祭ったお宮であることは小学校時代から知っていた。私は西公園の下にある師範付属小学校に4年生からかよっていたからである。光雲神社での学校の行事も多く、登りの石段で記念写真をとったり、冬に大雪が降るとクラスで山に登って雪合戦をしたりしていた。
しかし神社の名前の {光と雲」が黒田如水と黒田長政の戒名からとったものであることは、最近知った。そしてこの神社は福岡城のなかにあったのを、明治維新後に西公園に移したこともわせて教えられた。城内は政府軍の練兵場として使われるようになったからである。

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ではその前に西公園にはなにがあったか? 筑前の東照宮があったそうでだ。
しかし徳川幕府が滅びるとともに東照宮が取り払われたの当然であろう。
黒田家のお家騒動で、幕府に危うく取り潰されそうになった忠之公は、幕府の機嫌をとるために、日光東照宮にあやかって、筑前東照宮の建立を願い出て、西公園の山頂に東照宮をつくり、同時に天台宗の寺院も西公園に建立した。幕府の最高ブレーンであった天海和尚が天台宗だったからで、地元の天台宗の総本山をここに建立したのである。寺は明治維新後の廃仏棄釈で取り壊されたが、仏像などは古賀市の清瀧寺に移された。黒田藩は徳川幕府さまさまの政策をこの頃から幕末まで続けた。



しかしお隣の小倉藩でも同じころ小倉の延命寺に東照宮を建立している。当時の小笠原藩主が老中になりたいと思い、これも幕府の機嫌とり政策であった。黒田ばかりを責めるわけにはいかない。
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黒田長政の有名な水牛の兜の像と、黒田武士で有名な母里太兵衛
の像が境内にある。
長政は関が原の戦いの最中に水中に落ちたが、この長い角が水面に突き出していたので、なんとか助けられたという。
母里の槍は黒田家が保管していたが、明治維新後経済的な困窮時に一時売られていた。
めぐりめぐって、もと藩士で財をなしたY家の所有となったが、最後には黒田家に返却されたという。
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by gfujino1 | 2005-08-04 17:26 | 郷土史
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